荀子 / 修身篇
禮者、所以正身也,師者、所以正禮也。無禮何以正身?無師吾安知禮之為是也?禮然而然,則是情安禮也;師云而云,則是知若師也。情安禮,知若師,則是聖人也。故非禮,是無法也;非師,是無師也。不是師法,而好自用,譬之是猶以盲辨色,以聾辨聲也,舍亂妄無為也。故學也者,禮法也。夫師、以身為正儀,而貴自安者也。《詩》云:「不識不知,順帝之則。」此之謂也。
新字:礼者、所以正身也,師者、所以正礼也。無礼何以正身?無師吾安知礼之為是也?礼然而然,則是情安礼也;師云而云,則是知若師也。情安礼,知若師,則是聖人也。故非礼,是無法也;非師,是無師也。不是師法,而好自用,譬之是猶以盲辨色,以聾辨声也,舎乱妄無為也。故學也者,礼法也。夫師、以身為正儀,而貴自安者也。《詩》云:「不識不知,順帝之則。」此之謂也。
書き下し
礼なる者は、身を正す所以なり。師なる者は、礼を正す所以なり。礼無くんば何を以て身を正さん。師無くんば吾れ安くんぞ礼の是と為すを知らん。礼然りとして然りとせば、則ち是れ情、礼に安んずるなり。師云いて云わば、則ち是れ知、師の若きなり。情、礼に安んじ、知、師の若くならば、則ち是れ聖人なり。故に礼を非とするは、是れ法無きなり。師を非とするは、是れ師無きなり。師法を是とせずして自ら用うるを好むは、之を譬うれば是れ猶お盲を以て色を弁じ、聾を以て声を弁ずるがごとし。乱妄を舎きて為す無きなり。故に学ぶ者は、礼法なり。夫れ師は、身を以て正儀と為して、自ら安んずるを貴ぶ者なり。詩に云う、「識らず知らず、帝の則に順う」とは、此れを之れ謂うなり。
現代語訳
礼とは、わが身を正すためのものである。師とは、その礼を正すためのものである。礼がなければ、何によって身を正すのか。師がいなければ、その礼が正しいと、どうして知ることができようか。礼がそうだと示すとおりにそうする、それは心情が礼に落ち着いているということである。師が言うとおりに言う、それは知が師のとおりになっているということである。心情が礼に落ち着き、知が師のとおりになれば、それが聖人である。だから、礼を否定するのは、依るべき法を持たないということであり、師を否定するのは、師を持たないということである。師と法を正しいとせず、自分の判断ばかりを用いたがるのは、たとえば目の見えない者が色を見分け、耳の聞こえない者が音を聞き分けようとするようなものだ。乱れとでたらめのほかには、何も生まれない。だから学ぶとは、礼と法を学ぶことである。そもそも師とは、わが身をもって正しい手本となり、みずからそこに落ち着いていることを尊ぶ者である。詩経に「知らず知らずのうちに、天帝の法則に従う」とあるのは、このことを言ったのである。