荀子 / 修身篇
行而供冀,非漬淖也;行而俯項,非擊戾也;偶視而先俯,非恐懼也。然夫士欲獨修其身,不以得罪於比俗之人也。
新字:行而供冀,非漬淖也;行而俯項,非擊戻也;偶視而先俯,非恐懼也。然夫士欲独修其身,不以得罪於比俗之人也。
書き下し
行きて供冀するは、漬淖するに非ざるなり。行きて項を俯すは、撃戻するに非ざるなり。偶視して先ず俯すは、恐懼するに非ざるなり。然れども夫の士は独り其の身を修めんと欲し、以て比俗の人に罪を得ざらんとするなり。
現代語訳
歩くときに用心深くつつしむのは、ぬかるみにはまるのを恐れているからではない。歩くときにうなじを低くたれるのは、何かにぶつかるのを避けているからではない。人と目が合ったとき先に目を伏せるのは、相手を恐れているからではない。そうではなく、士たる者は、ただひとりわが身を修めようとし、そうすることで世俗に流される人々から憎まれ、とがめを受けないようにしているのである。
解説
短い段ですが、修養する人の身の処し方を描いた印象的な一節です。慎重に歩く、頭を低くする、視線を先に伏せる——これらは臆病さや卑屈さから来る動作に見えますが、荀子はそうではないと言います。それは、ひとり静かに身を修めようとする人が、世俗にどっぷり浸かった人々といたずらに衝突しないための、意識的な身の処し方なのだ、というのです。自分を正そうとする人は、それだけで周囲から浮きます。まっすぐさが、他人には非難や当てつけに映ることもある。だからこそ、内では厳しく、外ではやわらかく低く構える。この非対称が大切なのです。志を高く持つことと、人に対して謙虚に振る舞うことは矛盾しません。むしろ、静かに低く構えているからこそ、自分の修養を邪魔されずに続けていけるのだと荀子は教えています。