荀子 / 勧学篇
百發失一,不足謂善射;千里蹞步不至,不足謂善御;倫類不通,仁義不一,不足謂善學。學也者,固學一之也。一出焉,一入焉,涂巷之人也;其善者少,不善者多,桀紂盜跖也;全之盡之,然後學者也。
新字:百発失一,不足謂善射;千里蹞歩不至,不足謂善御;倫類不通,仁義不一,不足謂善學。學也者,固學一之也。一出焉,一入焉,涂巷之人也;其善者少,不善者多,桀紂盗跖也;全之尽之,然後學者也。
書き下し
百発して一を失えば、善射と謂うに足らず、千里蹞歩至らざれば、善御と謂うに足らず、倫類通ぜず、仁義一ならざれば、善学と謂うに足らず。学は固より一を学ぶなり。一たび出で、一たび入るは、涂巷の人なり。其の善なる者は少なく、不善なる者は多きは、桀紂盗跖なり。之を全くし之を尽くして、然る後に学者なり。
現代語訳
百回射て一回でも外せば、弓の名人とはいえない。千里の道も最後の半歩が届かなければ、御者の名人とはいえない。物事の筋道や分類に通じず、仁義が一貫していなければ、学問ができているとはいえない。学問とは、そもそも「一(一貫すること)」を学ぶものだ。あるときは善に出て、あるときは悪に入るという不徹底な者は、そのへんの街の凡人にすぎない。善が少なく悪が多い者は、桀・紂・盗跖のような悪人だ。善を完全に、徹底的にやりきって、初めて本物の学者といえるのである。
解説
学びに求められる「徹底」を説いた段です。百発百中でなければ名射手とは言えず、千里の道も最後の一歩が届かなければ名御者とは言えない——ほとんど達成しても、詰めが甘ければ意味がない、という厳しさから始まります。荀子にとって学問とは「一を学ぶ」、つまり一貫性を身につけること。善だったり悪だったりと揺れる不徹底な人間は、ただの街の凡人。善より悪が多ければ桀・紂・盗跖のような悪人だ、とまで言います。そして「之を全くし之を尽くして、然る後に学者なり」——中途半端を許さず、善を完全にやりきって初めて本物だ、と締めます。これは前段までの「継続」「一点集中」を、質の面から締め直したもの。八割できたで満足せず、最後まで詰めきる。ぶれずに一貫する。その徹底こそが、学びを「できたつもり」から「本物」へと引き上げるのだ、という荀子らしい厳格な結論です。