貞観政要 / 安辺
貞觀十四年,侯君集平高昌之後,太宗欲以其地為州縣。魏徵曰:「陛下初臨天下,高昌王先來朝謁,自後數有商胡稱其遏絕貢獻,加之不禮大國詔使,遂使王誅載加。若罪止文泰,斯亦可矣。未若因撫其民而立其子,所謂伐罪吊民,威德被於遐外,為國之善者也。今若利其土壤以為州縣,常須千餘人鎮守,數年一易。每來往交替,死者十有三四,遣辦衣資,離別親戚。十年之後,隴右空虛,陛下終不得高昌撮谷尺布以助於中國。所謂散有用而事無用,臣未見其可。」太宗不從,竟以其地置西州,仍以西州為安西都護府,每歲調發千餘人防遏其地。
新字:貞観十四年,侯君集平高昌之後,太宗欲以其地為州県。魏徴曰:「陛下初臨天下,高昌王先来朝謁,自後数有商胡称其遏絶貢献,加之不礼大国詔使,遂使王誅載加。若罪止文泰,斯亦可矣。未若因撫其民而立其子,所謂伐罪吊民,威徳被於遐外,為国之善者也。今若利其土壤以為州県,常須千余人鎮守,数年一易。毎来往交替,死者十有三四,遣辦衣資,離別親戚。十年之後,隴右空虚,陛下終不得高昌撮谷尺布以助於中国。所謂散有用而事無用,臣未見其可。」太宗不従,竟以其地置西州,仍以西州為安西都護府,毎歳調発千余人防遏其地。
書き下し
貞観十四年、侯君集、高昌を平らげし後、太宗は其の地を以て州県と為さんと欲す。魏徴曰く、「陛下、初めて天下に臨む。高昌王は先に来たりて朝謁す。自後、数々商胡有りて、其の貢献を遏絶すと称す。加うるに大国の詔使に礼せざるを以てす。遂に王誅をして加えしむ。若し罪を文泰に止めば、斯れ亦た可なり。未だ因りて其の民を撫し、其の子を立つるに若かず。所謂る罪を伐ち民を吊す。威徳は遐外に被る。国を為むるの善なる者なり。今、若し其の土壌を利として以て州県と為さば、常に千余人を須(もち)いて鎮守せしめ、数年に一たび易(か)う。来往交替する毎に、死する者は十に三四有り。衣資を遣辦(けんべん)し、親戚に離別す。十年の後、隴右は空虚ならん。陛下は終に高昌の撮谷尺布をも得て以て中国を助くること能わず。所謂る有用を散じて無用を事とするなり。臣は未だ其の可なるを見ず」と。太宗従わず。竟に其の地を以て西州を置く。仍お西州を以て安西都護府と為す。毎歳、千余人を調発して其の地を防遏せしむ。
現代語訳
貞観十四年、侯君集が高昌を平定した後、太宗はその地を州県にしようとした。魏徴が言った。「陛下が初めて天下に臨まれた時、高昌王は真っ先に朝見しました。その後、商人がしばしば、彼が朝貢を妨げていると訴えました。加えて大国の使者に礼を欠いた。だから王の誅罰が加えられたのです。もし罪を麴文泰一人にとどめれば、それでよいのです。むしろその民を撫で、その子を立てるに越したことはない。いわゆる罪を討ち民を弔うことです。威と徳が遠方に及ぶ。国を治めるうえで善いことです。今もしその土地を利として州県とすれば、常に千余人を置いて守らせ、数年ごとに交代させねばならない。往来し交替するたび、死ぬ者が十のうち三、四出ます。旅の支度を整え、親族と別れる。十年の後、隴右は空になるでしょう。陛下は高昌から一握りの穀物、一尺の布も得て中国を助けることはできません。いわゆる有用を散らして無用を事とすることです。臣は可とは思えません」。太宗は従わなかった。ついにその地に西州を置き、西州を安西都護府とした。毎年千余人を動員して守らせた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
貞観政要・安辺黄門侍郎褚遂良も亦た以て不可と為す。疏を上りて曰く、「臣聞く、古者、哲后の朝に臨み、明王の業を創むるや、必ず華夏を先にして夷狄を後にす。諸々の徳化を広め、遐荒を事とせず、と。是を以て周宣は薄伐し、境に至りて反(かえ)る。始皇は遠く塞ぎ、中国分離す。陛下は高昌を誅滅し、威は西域に加わる。其の鯨鯢を収め、以て州県と為す。然れば則ち王師の初めて発するの歳、河西の役に供するの年、芻を飛ばし粟を挽き、十室九空なり。数郡は蕭然たり。五年にして復せず。陛下は毎歳千余人を遣わして遠く屯戍を事とす。終年離別し、万里に帰を思う。去る者の資装は、自ら営辦を須(もち)う。既に菽粟を売り、其の機杼を傾く。途を経て死亡するは、復た言外に在り。兼ねて罪人を遣わし、其の防遏を増す。遣わす所の内、復た逃亡有り。官司は捕捉し、国の為に事を生ず。高昌の途路は、沙磧千里。冬の風は冰冽、夏の風は焚くが如し。行人は之に遇わば多く死す。『易』に云う『安くして危うきを忘れず、治まりて乱るるを忘れず』と。設令(たと)い張掖に塵飛び、酒泉に烽挙がらば、陛下は豈に能く高昌の一人の菽粟を得て事に及ばんや。終に須らく隴右の諸州を発し、星馳電撃すべし。斯れに由りて言えば、此の河西なる者は心腹に方(なぞら)え、彼の高昌なる者は他人の手足なり。豈に中華を糜費して、以て無用を事とするを得んや。陛下は頡利を沙塞に平らげ、吐渾を西海に滅ぼす。突厥の余落は、為に可汗を立つ。葉渾の遺萌は、更に君長を樹つ。復た高昌を立つるは、前例無きに非ず。此れ所謂る罪有りて之を誅し、既に服して之を存す、なり。宜しく高昌の立つべき者を択び、首領を徴給し、遣わして本国に還さば、洪恩を負戴し、長く藩翰と為らん。中国は擾されず。既に富み且つ寧し。之を子孫に伝え、以て後代に貽(のこ)さん」と。疏奏するも、納れられず。
-
貞観政要・安辺十六年に至り、西突厥、兵を遣わして西州を寇す。太宗侍臣に謂いて曰く、「朕は西州に警急有りと聞く。害を為すに足らずと雖も、然れども豈に能く憂い無からんや。往者、初めて高昌を平らぐ。魏徴・褚遂良は朕に麴文泰の子弟を立て、旧に依りて国と為さんことを勧む。朕は竟に其の計を用いず。今日、方に自ら悔責す。昔、漢の高祖は平城の囲に遭いて婁敬を賞す。袁紹は官渡に敗れて田豊を誅す。朕は恒に此の二事を以て誡と為す。寧ぞ言う所の者を忘るるを得んや」と。
-
貞観政要・納諫貞観十五年、使を遣わして西域に詣り、葉護可汗を立てしむ。未だ還らざるに、又た人をして多く金帛を賫(もたら)し、諸国を歴(へ)て馬を市(か)わしむ。魏徴諫めて曰く、「今、使を発するに可汗を立つるを以て名と為す。可汗未だ定立せざるに、即ち諸国に詣りて馬を市う。彼は必ず以為えらく、意は馬を市うに在り、専ら可汗を立つるが為ならずと。可汗、立つを得ば、則ち甚だしくは恩に懐かず。立つを得ずんば、則ち深き怨みを生ず。諸蕃之を聞かば、且つ中国を重んぜず。但だ彼の国をして安寧ならしめば、則ち諸国の馬は、求めずして自ら至らん。昔、漢の文帝に千里の馬を献ずる者有り。曰く、『吾が吉行は日に三十、凶行は日に五十。鸞輿は前に在り、属車は後に在り。吾独り千里の馬に乗らば、将に安(いず)くにか之かんとするや』と。乃ち其の道里の費やす所を償いて之を返す。又た光武に千里の馬及び宝剣を献ずる者有り。馬は以て鼓車に駕し、剣は以て騎士に賜う。今、陛下の凡そ施為する所は、皆な邈(はる)かに三王の上を過ぐ。奈何ぞ此に至りて孝文・光武の下と為らんと欲するや。又た魏の文帝は西域の大珠を求め市わんとす。蘇則曰く、『若し陛下の恵み四海に及ばば、則ち求めずして自ら至らん。求めて之を得るは、貴ぶに足らず』と。陛下は縦(たと)い漢の文の高行を慕う能わずとも、蘇則の正言を畏れざるべけんや」と。太宗遽かに之を止めしむ。
-
貞観政要・安辺十三年、太宗九成宮に幸す。突利可汗の弟中郎将阿史那結社率、陰かに部する所を結び、並びに突利の子賀羅鶻を擁して夜、御営を犯す。事敗れ、皆な之を捕斬す。太宗は是より突厥を直(ただ)しとせず。其の部衆を中国に処するを悔ゆ。其の旧部を河北に還し、牙を故の定襄城に建て、李思摩を立てて乙彌泥熟俟利苾可汗と為し、以て之を主らしむ。因りて侍臣に謂いて曰く、「中国の百姓は、実に天下の根本なり。四夷の人は、乃ち枝葉に同じ。其の根本を擾して以て枝葉を厚くし、而して久安を求むるは、未だ之れ有らざるなり。初め魏徴の言を納れず。遂に労費の日に甚だしきを覚え、幾(ほとん)ど久安の道を失えり」と。
-
貞観政要・征伐貞観十四年、兵部尚書侯君集、高昌を伐つ。師の柳谷に次(やど)るに及び、候騎言う、「高昌王麴文泰死す。日を克して将に葬らんとす。国人は咸な集まる。二千の軽騎を以て之を襲わば、尽く得べきなり」と。副将薛万均・姜行本、皆な以て然りと為す。君集曰く、「天子は高昌の驕慢なるを以て、吾をして恭しく天誅を行わしむ。乃ち墟墓の間に於て以て其の葬を襲うは、武と称するに足らず。此れ罪を問うの師に非ざるなり」と。遂に兵を按じて以て葬の畢わるを待ち、然る後に軍を進め、遂に其の国を平らぐ。
-
貞観政要・安辺貞観四年、李靖、突厥の頡利を撃ち、之を敗る。其の部落の多く来たりて帰降する者あり。詔して安辺の策を議せしむ。中書令温彦博議す、「請う、河南に於て之を処せん。漢の建武の時に準ずるに、降匈奴を五原の塞下に置き、其の部落を全うし、捍蔽と為すを得たり。又た其の土俗を離れず、因りて之を撫す。一には則ち空虚の地を実たし、二には則ち猜無きの心を示す。是れ含育の道なり」と。太宗之に従う。秘書監魏徴曰く、「匈奴は古より今に至るまで、未だ斯くの如きの破敗有らず。此れ是れ上天の剿絶、宗廟の神武なり。且つ其れ世々中国を寇し、万姓の冤仇なり。陛下は其の降と為るを以て、誅滅する能わずんば、即ち宜しく河北に遣発し、其の旧土に居らしむべし。匈奴は人面獣心、我が族類に非ず。強ければ必ず寇盗し、弱ければ則ち卑伏す。恩義を顧みざるは、其の天性なり。秦・漢の之を患うること是くの若し。故に時に猛将を発して以て之を撃ち、其の河南を収めて以て郡県と為す。陛下は内地を以て之に居らしむ。且つ今、降る者は幾(ほとん)ど十万に至る。数年の後、滋息は倍に過ぎん。我が肘腋に居り、王畿に甫(はじ)めて邇(ちか)し。心腹の疾なり。将に後患と為らん。尤も河南に処すべからざるなり」と。温彦博曰く、「天子の万物に於けるや、天は覆い地は載す。我に帰する者有らば則ち必ず之を養う。今、突厥は破除せられ、余落は帰附す。陛下、憐湣を加えず、棄てて納れずんば、天地の道に非ず。四夷の意を阻む。臣は愚なるも甚だ不可と謂う。宜しく之を河南に処すべし。所謂る死して之を生かし、亡びて之を存す。我が厚恩を懐かば、終に叛逆無からん」と。魏徴曰く、「晋代、魏の時に有り。胡の部落は近郡に分居す。江統は逐いて塞外に出ださんことを勧む。武帝は其の言を用いず。数年の後、遂に瀍・洛を傾く。前代の覆車、殷鑑遠からず。陛下、必ず彦博の言を用い、遣わして河南に居らしめば、所謂る獣を養いて自ら患いを遺す者なり」と。彦博又た曰く、「臣聞く、聖人の道は、通ぜざる所無し、と。突厥の余魂は、命を以て我に帰す。収めて内地に居らしめ、教うるに礼法を以てし、其の酋首を選び、遣わして宿衛に居らしむ。威を畏れ徳に懐かば、何の患いか之れ有らん。且つ光武は河南の単于を内郡に居らしめ、以て漢の藩翰と為す。一代を終うるまで、叛逆有らず」と。又た曰く、「隋の文帝は兵馬を労し、倉庫を費やし、可汗を樹立し、其の国に復せしむ。後に恩を孤(そむ)き信を失い、煬帝を雁門に囲む。今、陛下は仁厚なり。其の欲する所に従い、河南・河北、情に任せて居住せしめ、各々酋長有り、相い統属せず。力は散じ勢は分かる。安くんぞ能く害を為さん」と。給事中杜楚客進みて曰く、「北狄は人面獣心。徳を以て懐け難く、威を以て服し易し。今、其の部落をして河南に散処せしめば、中華に逼近す。久しくば必ず患いと為らん。雁門の役の如きに至りては、是れ突厥の恩に背くと雖も、自ら隋主の無道に由る。中国は之を以て喪乱す。豈に亡国を興復して以て此の禍を致すと云うを得んや。夷は華を乱さず。前哲の明訓なり。亡を存し絶を継ぐは、列聖の通規なり。臣は恐る、事の古を師とせずんば、以て長久なり難きを」と。太宗は其の言を嘉すも、方に懐柔に務め、未だ之に従わず。卒に彦博の策を用う。幽州より霊州に至るまで、順・祐・化・長の四州都督府を置きて以て之を処す。其の人の長安に居る者は近く且つ万家なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る