貞観政要 / 安辺
十三年,太宗幸九成宮。突利可汗弟中郎將阿史那結社率陰結所部,並擁突利子賀羅鶻夜犯御營,事敗,皆捕斬之。太宗自是不直突厥,悔處其部眾於中國,還其舊部於河北,建牙於故定襄城,立李思摩為乙彌泥熟俟利苾可汗以主之。因謂侍臣曰「中國百姓,實天下之根本,四夷之人,乃同枝葉,擾其根本以厚枝葉,而求久安,未之有也。初不納魏徵言,遂覺勞費日甚,幾失久安之道。」
新字:十三年,太宗幸九成宮。突利可汗弟中郎将阿史那結社率陰結所部,並擁突利子賀羅鶻夜犯御営,事敗,皆捕斬之。太宗自是不直突厥,悔処其部衆於中国,還其旧部於河北,建牙於故定襄城,立李思摩為乙弥泥熟俟利苾可汗以主之。因謂侍臣曰「中国百姓,実天下之根本,四夷之人,乃同枝葉,擾其根本以厚枝葉,而求久安,未之有也。初不納魏徴言,遂覚労費日甚,幾失久安之道。」
書き下し
十三年、太宗九成宮に幸す。突利可汗の弟中郎将阿史那結社率、陰かに部する所を結び、並びに突利の子賀羅鶻を擁して夜、御営を犯す。事敗れ、皆な之を捕斬す。太宗は是より突厥を直(ただ)しとせず。其の部衆を中国に処するを悔ゆ。其の旧部を河北に還し、牙を故の定襄城に建て、李思摩を立てて乙彌泥熟俟利苾可汗と為し、以て之を主らしむ。因りて侍臣に謂いて曰く、「中国の百姓は、実に天下の根本なり。四夷の人は、乃ち枝葉に同じ。其の根本を擾して以て枝葉を厚くし、而して久安を求むるは、未だ之れ有らざるなり。初め魏徴の言を納れず。遂に労費の日に甚だしきを覚え、幾(ほとん)ど久安の道を失えり」と。
現代語訳
貞観十三年、太宗が九成宮に行幸した。突利可汗の弟である中郎将の阿史那結社率が、密かに配下を結び、突利の子の賀羅鶻を擁して夜、御所の陣営を襲った。事が失敗し、みな捕らえて斬られた。太宗はこれ以来、突厥を正しいと思わなくなった。その部族を中国内に住まわせたことを悔いた。旧来の部族を黄河の北に戻し、本営を旧定襄城に置き、李思摩を可汗に立てて統治させた。そして側近の臣に言った。「中国の民は、実に天下の根本である。四方の異民族は、枝葉と同じだ。根本を乱して枝葉を厚くし、長く安らかであろうとした例はない。初め魏徴の言葉を受け入れなかった。ついに労費が日に甚だしくなり、ほとんど長く安らかにする道を失うところだった」。
解説
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貞観政要・安辺突厥の頡利の破れて後より、諸部落の首領の来降する者は、皆な将軍・中郎将に拝せられ、朝廷に布列す。五品以上百余人。殆ど朝士と相い半ばす。惟だ拓抜のみ至らず。又た遣わして之を招慰す。使者は道に相い望む。涼州都督李大亮は以為えらく、事に於て益無く、徒らに中国を費やすと。疏を上りて曰く、「臣聞く、遠きを綏(やす)んぜんと欲する者は必ず先ず近きを安んず、と。中国の百姓は、天下の根本なり。四夷の人は、猶お枝葉に於けるがごとし。其の根本を擾(みだ)して以て枝葉を厚くし、而して久安を求むるは、未だ之れ有らざるなり。古より明王は、中国を化するに信を以てし、夷狄を馭するに権を以てす。故に『春秋』に云う、『戎狄は豺狼なり。厭くべからざるなり。諸夏は親昵なり。棄つべからざるなり』と。陛下、区宇に君臨してより、根を深くし本を固くす。人は逸し兵は強く、九州は殷富なり。四夷は自ら服す。今者、突厥を招致し、提封に入ると雖も、臣は愚にして稍(やや)労費を覚ゆ。未だ其の益有るを悟らざるなり。然れども河西の民庶は、藩夷を鎮禦す。州県は蕭条とし、戸口は鮮少なり。加うるに隋の乱に因り、減耗尤も多し。突厥の未だ平らがざるの前、尚お業に安んぜず。匈奴の微弱なりし以来、始めて農畝に就く。若し即ち労役せば、恐らくは防損を致さん。臣が愚惑を以て、請う、招慰を停めよ。且つ之を荒服と謂うは、故に臣として納れざるなり。是を以て周室は民を愛し狄を攘(はら)い、竟に八百の齢を延ぶ。秦王は戦を軽んじ胡に事う。故に四十載にして絶滅す。漢の文は兵を養い静かに守る。天下は安豊なり。孝武は威を揚げ遠く略す。海内は虚耗す。輪台を悔ゆと雖も、追うも已に及ばず。隋室に至りては、早く伊吾を得、兼ねて鄯善を統ぶ。且つ既に之を得るの後、労費は日に甚だし。内を虚しくして外を致す。竟に損じて益無し。遠く秦・漢を尋ね、近く隋室を観るに、動静安危は、昭然として備われり。伊吾は已に臣附すと雖も、遠く藩磧に在り。民は夏人に非ず。地は沙鹵多し。其の自ら豎立して藩附庸と称する者は、請う、羈縻して之を受け、塞外に居らしめよ。必ず威を畏れ徳に懐き、永く藩臣と為らん。蓋し虚恵を行いて実福を収むるなり。近日、突厥は国を傾けて入朝す。既に之を江淮に俘(とりこ)にして、以て其の俗を変ずる能わず。乃ち内地に置き、京を去ること遠からず。則ち寛仁の義なりと雖も、亦た久安の計に非ざるなり。一人の初めて降るを見る毎に、物五匹、袍一領を賜う。酋長は悉く大官を授かる。禄は厚く位は尊し。理として糜費多し。中国の租賦を以て、積悪の凶虜に供す。其の衆は益ます多し。中国の利に非ざるなり」と。太宗納れず。
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貞観政要・安辺貞観四年、李靖、突厥の頡利を撃ち、之を敗る。其の部落の多く来たりて帰降する者あり。詔して安辺の策を議せしむ。中書令温彦博議す、「請う、河南に於て之を処せん。漢の建武の時に準ずるに、降匈奴を五原の塞下に置き、其の部落を全うし、捍蔽と為すを得たり。又た其の土俗を離れず、因りて之を撫す。一には則ち空虚の地を実たし、二には則ち猜無きの心を示す。是れ含育の道なり」と。太宗之に従う。秘書監魏徴曰く、「匈奴は古より今に至るまで、未だ斯くの如きの破敗有らず。此れ是れ上天の剿絶、宗廟の神武なり。且つ其れ世々中国を寇し、万姓の冤仇なり。陛下は其の降と為るを以て、誅滅する能わずんば、即ち宜しく河北に遣発し、其の旧土に居らしむべし。匈奴は人面獣心、我が族類に非ず。強ければ必ず寇盗し、弱ければ則ち卑伏す。恩義を顧みざるは、其の天性なり。秦・漢の之を患うること是くの若し。故に時に猛将を発して以て之を撃ち、其の河南を収めて以て郡県と為す。陛下は内地を以て之に居らしむ。且つ今、降る者は幾(ほとん)ど十万に至る。数年の後、滋息は倍に過ぎん。我が肘腋に居り、王畿に甫(はじ)めて邇(ちか)し。心腹の疾なり。将に後患と為らん。尤も河南に処すべからざるなり」と。温彦博曰く、「天子の万物に於けるや、天は覆い地は載す。我に帰する者有らば則ち必ず之を養う。今、突厥は破除せられ、余落は帰附す。陛下、憐湣を加えず、棄てて納れずんば、天地の道に非ず。四夷の意を阻む。臣は愚なるも甚だ不可と謂う。宜しく之を河南に処すべし。所謂る死して之を生かし、亡びて之を存す。我が厚恩を懐かば、終に叛逆無からん」と。魏徴曰く、「晋代、魏の時に有り。胡の部落は近郡に分居す。江統は逐いて塞外に出ださんことを勧む。武帝は其の言を用いず。数年の後、遂に瀍・洛を傾く。前代の覆車、殷鑑遠からず。陛下、必ず彦博の言を用い、遣わして河南に居らしめば、所謂る獣を養いて自ら患いを遺す者なり」と。彦博又た曰く、「臣聞く、聖人の道は、通ぜざる所無し、と。突厥の余魂は、命を以て我に帰す。収めて内地に居らしめ、教うるに礼法を以てし、其の酋首を選び、遣わして宿衛に居らしむ。威を畏れ徳に懐かば、何の患いか之れ有らん。且つ光武は河南の単于を内郡に居らしめ、以て漢の藩翰と為す。一代を終うるまで、叛逆有らず」と。又た曰く、「隋の文帝は兵馬を労し、倉庫を費やし、可汗を樹立し、其の国に復せしむ。後に恩を孤(そむ)き信を失い、煬帝を雁門に囲む。今、陛下は仁厚なり。其の欲する所に従い、河南・河北、情に任せて居住せしめ、各々酋長有り、相い統属せず。力は散じ勢は分かる。安くんぞ能く害を為さん」と。給事中杜楚客進みて曰く、「北狄は人面獣心。徳を以て懐け難く、威を以て服し易し。今、其の部落をして河南に散処せしめば、中華に逼近す。久しくば必ず患いと為らん。雁門の役の如きに至りては、是れ突厥の恩に背くと雖も、自ら隋主の無道に由る。中国は之を以て喪乱す。豈に亡国を興復して以て此の禍を致すと云うを得んや。夷は華を乱さず。前哲の明訓なり。亡を存し絶を継ぐは、列聖の通規なり。臣は恐る、事の古を師とせずんば、以て長久なり難きを」と。太宗は其の言を嘉すも、方に懐柔に務め、未だ之に従わず。卒に彦博の策を用う。幽州より霊州に至るまで、順・祐・化・長の四州都督府を置きて以て之を処す。其の人の長安に居る者は近く且つ万家なり。
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貞観政要・安辺十六年に至り、西突厥、兵を遣わして西州を寇す。太宗侍臣に謂いて曰く、「朕は西州に警急有りと聞く。害を為すに足らずと雖も、然れども豈に能く憂い無からんや。往者、初めて高昌を平らぐ。魏徴・褚遂良は朕に麴文泰の子弟を立て、旧に依りて国と為さんことを勧む。朕は竟に其の計を用いず。今日、方に自ら悔責す。昔、漢の高祖は平城の囲に遭いて婁敬を賞す。袁紹は官渡に敗れて田豊を誅す。朕は恒に此の二事を以て誡と為す。寧ぞ言う所の者を忘るるを得んや」と。
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貞観政要・征伐武徳九年冬、突厥の頡利・突利の二可汗、其の衆二十万を以て、滑水便橋の北に至る。酋帥執矢思力を遣わして入朝せしめ、覘(うかが)いと為す。自ら声勢を張りて云う、「二可汗は兵百万を総ぶ。今、已に至れり」と。乃ち返命を請う。太宗謂いて曰く、「我と突厥と面(まのあた)り自ら和親す。汝は則ち之に背く。我に愧ずる所無し。何ぞ輒(すなわ)ち兵を将(ひき)いて我が畿県に入り、自ら強盛を誇るや。我は当に先ず爾を戮すべし」と。思力は懼れて命を請う。蕭瑀・封徳彜等は礼して之を遣わさんことを請う。太宗曰く、「然らず。今、若し放ち還さば、必ず我を懼ると謂わん」と。乃ち之を囚えしむ。太宗曰く、「頡利は我が国家に新たに内難有るを聞き、又た朕の初めて即位するを聞く。所以に其の兵衆を率いて直ちに此に至る。我の敢えて之を拒まざるを謂うなり。朕若し門を閉じて自ら守らば、虜は必ず兵を縦(ほしいまま)にして大いに掠めん。強弱の勢は、今一策に在り。朕は将に独り出でて、以て之を軽んずるを示し、且つ軍容を耀かし、必ず戦うを知らしめんとす。事は不意に出で、其の本図に乖(そむ)く。匈奴を制服するは、茲の挙に在り」と。遂に単馬にして進み、津を隔てて与に語る。頡利は測る能わず。俄かにして六軍継ぎ至る。頡利は軍容の大いに盛んなるを見、又た思力の拘に就くを知る。是に由りて大いに懼れ、盟を請いて退く。
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貞観政要・安辺貞観十四年、侯君集、高昌を平らげし後、太宗は其の地を以て州県と為さんと欲す。魏徴曰く、「陛下、初めて天下に臨む。高昌王は先に来たりて朝謁す。自後、数々商胡有りて、其の貢献を遏絶すと称す。加うるに大国の詔使に礼せざるを以てす。遂に王誅をして加えしむ。若し罪を文泰に止めば、斯れ亦た可なり。未だ因りて其の民を撫し、其の子を立つるに若かず。所謂る罪を伐ち民を吊す。威徳は遐外に被る。国を為むるの善なる者なり。今、若し其の土壌を利として以て州県と為さば、常に千余人を須(もち)いて鎮守せしめ、数年に一たび易(か)う。来往交替する毎に、死する者は十に三四有り。衣資を遣辦(けんべん)し、親戚に離別す。十年の後、隴右は空虚ならん。陛下は終に高昌の撮谷尺布をも得て以て中国を助くること能わず。所謂る有用を散じて無用を事とするなり。臣は未だ其の可なるを見ず」と。太宗従わず。竟に其の地を以て西州を置く。仍お西州を以て安西都護府と為す。毎歳、千余人を調発して其の地を防遏せしむ。
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貞観政要・納諫貞観十五年、使を遣わして西域に詣り、葉護可汗を立てしむ。未だ還らざるに、又た人をして多く金帛を賫(もたら)し、諸国を歴(へ)て馬を市(か)わしむ。魏徴諫めて曰く、「今、使を発するに可汗を立つるを以て名と為す。可汗未だ定立せざるに、即ち諸国に詣りて馬を市う。彼は必ず以為えらく、意は馬を市うに在り、専ら可汗を立つるが為ならずと。可汗、立つを得ば、則ち甚だしくは恩に懐かず。立つを得ずんば、則ち深き怨みを生ず。諸蕃之を聞かば、且つ中国を重んぜず。但だ彼の国をして安寧ならしめば、則ち諸国の馬は、求めずして自ら至らん。昔、漢の文帝に千里の馬を献ずる者有り。曰く、『吾が吉行は日に三十、凶行は日に五十。鸞輿は前に在り、属車は後に在り。吾独り千里の馬に乗らば、将に安(いず)くにか之かんとするや』と。乃ち其の道里の費やす所を償いて之を返す。又た光武に千里の馬及び宝剣を献ずる者有り。馬は以て鼓車に駕し、剣は以て騎士に賜う。今、陛下の凡そ施為する所は、皆な邈(はる)かに三王の上を過ぐ。奈何ぞ此に至りて孝文・光武の下と為らんと欲するや。又た魏の文帝は西域の大珠を求め市わんとす。蘇則曰く、『若し陛下の恵み四海に及ばば、則ち求めずして自ら至らん。求めて之を得るは、貴ぶに足らず』と。陛下は縦(たと)い漢の文の高行を慕う能わずとも、蘇則の正言を畏れざるべけんや」と。太宗遽かに之を止めしむ。
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