貞観政要 / 征伐
《周易》曰:「知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。」又曰:「知進退存亡,而不失其正者,其惟聖人乎!」由此言之,進有退之義,存有亡之機,得有喪之理,老臣所以為陛下惜之者,蓋謂此也。《老子》曰:「知足不辱,知止不殆。」臣謂陛下威名功德,亦可足矣;拓地開疆,亦可止矣。彼高麗者,邊夷賤類,不足侍以仁義,不可責以常理。古來以魚鱉畜之,宜從闊略。必欲絕其種類,深恐獸窮則搏。且陛下每決死囚,必令三覆五奏,進素食,停音樂者,蓋以人命所重,感動聖慈也。況今兵士之徒,無一罪戾,無故驅之於戰陣之間,委之於鋒刃之下,使肝腦塗地,魂魄無歸,令其老父孤兒、寡妻慈母,望轊車而掩泣,抱枯骨而摧心,足變動陰陽,感傷和氣,實天下之冤痛也。且兵,兇器;戰,危事,不得已而用之。向使高麗違失臣節,而陛下誅之可也;侵擾百姓,而陛下滅之可也;久長能為中國患,而陛下除之可也。有一於此,雖日殺萬夫,不足為愧。今無此三條,坐煩中國,內為舊主雪怨,外為新羅報仇,豈非所存者小,所損者大?
新字:《周易》曰:「知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。」又曰:「知進退存亡,而不失其正者,其惟聖人乎!」由此言之,進有退之義,存有亡之機,得有喪之理,老臣所以為陛下惜之者,蓋謂此也。《老子》曰:「知足不辱,知止不殆。」臣謂陛下威名功徳,亦可足矣;拓地開疆,亦可止矣。彼高麗者,辺夷賤類,不足侍以仁義,不可責以常理。古来以魚鱉畜之,宜従闊略。必欲絶其種類,深恐獣窮則搏。且陛下毎決死囚,必令三覆五奏,進素食,停音楽者,蓋以人命所重,感動聖慈也。況今兵士之徒,無一罪戻,無故駆之於戦陣之間,委之於鋒刃之下,使肝脳塗地,魂魄無歸,令其老父孤児、寡妻慈母,望轊車而掩泣,抱枯骨而摧心,足変動陰陽,感傷和気,実天下之冤痛也。且兵,兇器;戦,危事,不得已而用之。向使高麗違失臣節,而陛下誅之可也;侵擾百姓,而陛下滅之可也;久長能為中国患,而陛下除之可也。有一於此,雖日殺万夫,不足為愧。今無此三条,坐煩中国,內為旧主雪怨,外為新羅報仇,豈非所存者小,所損者大?
書き下し
『周易』に曰く、「進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず、得るを知りて喪うを知らず」と。又た曰く、「進退存亡を知りて、其の正を失わざる者は、其れ惟だ聖人のみか」と。此に由りて之を言えば、進むに退くの義有り、存するに亡ぶるの機有り、得るに喪うの理有り。老臣の陛下の為に之を惜しむ所以の者は、蓋し此を謂うなり。『老子』に曰く、「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あや)うからず」と。臣謂えらく、陛下の威名功徳は、亦た足れりとすべし。地を拓き疆を開くは、亦た止むべし。彼の高麗なる者は、辺夷の賤類なり。侍するに仁義を以てするに足らず、責むるに常理を以てすべからず。古来、魚鱉を以て之を畜(か)う。宜しく闊略に従うべし。必ず其の種類を絶たんと欲せば、深く恐る、獣窮まれば則ち搏(う)つを。且つ陛下は死囚を決する毎に、必ず三覆五奏せしめ、素食を進め、音楽を停むる者は、蓋し人命の重んずる所を以て、聖慈を感動すればなり。況んや今、兵士の徒は、一の罪戻無し。故無くして之を戦陣の間に駆り、之を鋒刃の下に委ぬ。肝脳をして地に塗(まみ)れ、魂魄をして帰する無からしむ。其の老父・孤児、寡妻・慈母をして、轊車(えいしゃ)を望みて掩泣し、枯骨を抱きて心を摧かしむ。陰陽を変動し、和気を感傷するに足る。実に天下の冤痛なり。且つ兵は凶器、戦は危事なり。已むを得ずして之を用う。向(さき)に高麗をして臣節を違失せしめて、陛下之を誅するは可なり。百姓を侵擾せば、而して陛下之を滅ぼすは可なり。久長にして能く中国の患いを為さば、而して陛下之を除くは可なり。一も此に有らば、日に万夫を殺すと雖も、愧と為すに足らず。今、此の三条無し。坐して中国を煩わす。内は旧主の為に怨みを雪ぎ、外は新羅の為に仇に報ゆ。豈に存する所の者は小にして、損する所の者は大なるに非ずや。
現代語訳
『周易』に「進むことを知って退くことを知らず、存することを知って亡ぶことを知らず、得ることを知って失うことを知らない」とあります。また「進退存亡を知って、その正しさを失わない者は、ただ聖人だけか」とあります。ここから言えば、進むことには退く義があり、存することには亡ぶ機があり、得ることには失う理がある。老臣が陛下のために惜しむのは、これを言うのです。『老子』に「足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うくない」とあります。臣が思いますに、陛下の威名と功徳は、もう十分でしょう。領土を広げることも、もう止めてよい。あの高句麗は、辺境の賤しい類です。仁義をもって遇するに足らず、常の道理で責めることもできません。古来、魚や亀のように飼ってきました。おおまかに扱うべきです。必ずその種を絶やそうとすれば、獣が窮すれば噛みつくことを深く恐れます。それに陛下は死刑囚を裁くたび、必ず三度五度と再奏させ、粗食を取り、音楽を止められる。人の命が重いからこそ、慈しみが動くのです。まして今、兵士たちには一つの罪もありません。理由もなく戦場に駆り立て、刃の下に委ねる。肝も脳も地に塗れ、魂は帰る所がない。その老いた父、孤児、寡婦、慈母に、柩の車を望んで泣かせ、白骨を抱いて心を砕かせる。陰陽を狂わせ、和の気を傷つけるに足ります。まことに天下の痛みです。それに兵は凶器、戦は危うい事。やむを得ず用いるものです。もし高句麗が臣下の節を失ったなら、陛下が誅するのは可です。民を侵し乱すなら、滅ぼすのは可です。長く中国の患いとなるなら、除くのは可です。一つでもあれば、日に万人を殺しても、恥じるに足りません。今、この三つの条件がありません。座して中国を煩わせている。内では旧主のために怨みを晴らし、外では新羅のために仇を討つ。得るものは小さく、失うものは大きいのではありませんか」。