貞観政要 / 征伐
禮部尚書江夏王道宗從太宗征高麗,詔道宗與李勣為前鋒,及濟遼水克蓋牟城,逢賊兵大至,軍中僉欲深溝保險,待太宗至,徐進。道宗議曰:「不可,賊赴急遠來,兵實疲頓,恃眾輕我,一戰可摧。昔耿弇不以賊遺君父,我既職在前軍,當須清道以待輿駕。」李勣大然其議。乃率驍勇數百騎,直沖賊陣,左右出入,勣因合擊,大破之。太宗至,深加賞勞。道宗在陣損足,帝親為針灸,賜以御膳。
新字:礼部尚書江夏王道宗従太宗征高麗,詔道宗与李勣為前鋒,及済遼水克蓋牟城,逢賊兵大至,軍中僉欲深溝保険,待太宗至,徐進。道宗議曰:「不可,賊赴急遠来,兵実疲頓,恃衆軽我,一戦可摧。昔耿弇不以賊遺君父,我既職在前軍,当須清道以待輿駕。」李勣大然其議。乃率驍勇数百騎,直沖賊陣,左右出入,勣因合撃,大破之。太宗至,深加賞労。道宗在陣損足,帝親為針灸,賜以御膳。
書き下し
礼部尚書江夏王道宗、太宗に従いて高麗を征す。詔して道宗と李勣とを前鋒と為す。遼水を済(わた)り蓋牟城を克つに及び、賊兵の大いに至るに逢う。軍中は僉(みな)溝を深くし険を保ち、太宗の至るを待ちて、徐(おもむ)ろに進まんと欲す。道宗議して曰く、「不可なり。賊は急に赴きて遠く来たる。兵は実に疲頓す。衆を恃みて我を軽んず。一戦にして摧くべし。昔、耿弇は賊を以て君父に遺(のこ)さず。我は既に職は前軍に在り。当に須らく道を清めて以て輿駕を待つべし」と。李勣大いに其の議を然りとす。乃ち驍勇数百騎を率い、直ちに賊陣を衝く。左右に出入す。勣因りて合撃し、大いに之を破る。太宗至り、深く賞労を加う。道宗は陣に在りて足を損ず。帝は親ら為に針灸し、賜うに御膳を以てす。
現代語訳
礼部尚書の江夏王李道宗が、太宗に従って高句麗を征した。詔して李道宗と李勣を先鋒とした。遼水を渡って蓋牟城を落とすと、敵の大軍に遭った。軍中はみな、堀を深くして要害を守り、太宗の到着を待ってゆっくり進もうとした。李道宗は議して言った。「よくない。敵は急いで遠くから来た。兵は実に疲れている。多数を恃んで我々を軽んじている。一戦で砕ける。昔、耿弇は賊を君主に残さなかった。私は先鋒の職にある。道を清めて陛下の車駕を待つべきだ」。李勣は大いにその議に賛成した。そこで勇猛な数百騎を率い、まっすぐ敵陣を突いた。左右に出入りした。李勣が合わせて撃ち、大いに破った。太宗が到着し、深く賞し労った。李道宗は陣中で足を傷めた。帝は自ら鍼灸を施し、御膳を賜った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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荀子・儒効篇秦の昭王、孫卿子に問いて曰く、儒は人の国に益無し、と。孫卿子曰く、儒者は先王に法り、礼義を隆くし、臣子たるに謹みて其の上を貴ぶことを致す者なり。人主之を用うれば、則ち勢は本朝に在りて宜し。用いざれば、則ち退きて百姓に編して愨なり。必ず順なる下と為らん。窮困凍餧すと雖も、必ず邪道を以て貪を為さず。錐を置くの地無きも、社稷を持するの大義に明らかなり。嘄呼して之に能く応うる莫きも、然れども財万物に通じ、百姓を養うの経紀たり。勢人の上に在れば、則ち王公の材なり。人の下に在れば、則ち社稷の臣、国君の宝なり。窮閻漏屋に隠ると雖も、人之を貴ばざる莫きは、道の誠に存すればなり。仲尼将に司寇と為らんとするや、沈猶氏は敢えて朝に其の羊に飲ませず、公慎氏は其の妻を出し、慎潰氏は境を踰えて徙り、魯の牛馬を粥ぐ者は賈を予めせざりき。必ず蚤に正しくして以て之を待てばなり。闕党に居れば、闕党の子弟の獲は分たざること罔く、親有る者は多くを取る。孝弟以て之を化すればなり。儒者は本朝に在れば則ち政を美くし、下位に在れば則ち俗を美くす。儒の人の下と為ること是くの如し、と。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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