貞観政要 / 征伐
貞觀十九年,太宗將親征高麗,開府儀同三司尉遲敬德奏言:「車駕若自往遼左,皇太子又監國定州,東西二京,府庫所在,雖有鎮守,終是空虛,遼東路遙,恐有玄感之變。且邊隅小國,不足親勞萬乘。若克勝,不足為武,倘不勝,翻為所笑。伏請委之良將,自可應時摧滅。」太宗雖不從其諫,而識者是之。
新字:貞観十九年,太宗将親征高麗,開府儀同三司尉遅敬徳奏言:「車駕若自往遼左,皇太子又監国定州,東西二京,府庫所在,雖有鎮守,終是空虚,遼東路遥,恐有玄感之変。且辺隅小国,不足親労万乗。若克勝,不足為武,倘不勝,翻為所笑。伏請委之良将,自可応時摧滅。」太宗雖不従其諫,而識者是之。
書き下し
貞観十九年、太宗将に親ら高麗を征せんとす。開府儀同三司尉遅敬徳奏言す、「車駕若し自ら遼左に往かば、皇太子も又た国を定州に監す。東西の二京は、府庫の在る所なり。鎮守有りと雖も、終に是れ空虚なり。遼東は路遥かなり。恐らくは玄感の変有らん。且つ辺隅の小国は、親しく万乗を労するに足らず。若し克勝せば、武と為すに足らず。倘(も)し勝たずんば、翻って笑わるる所と為る。伏して請う、之を良将に委ねば、自ら時に応じて摧滅すべし」と。太宗は其の諫に従わずと雖も、識者は之を是とす。
現代語訳
貞観十九年、太宗が自ら高句麗を征しようとした。開府儀同三司の尉遅敬徳が奏上した。「陛下が自ら遼東へ行かれれば、皇太子も定州で国政を監することになります。東西の二つの都は、倉庫のある所です。守備はあっても、結局は空になります。遼東は道が遠い。楊玄感の乱のようなことが起きるかもしれません。それに辺境の小国は、天子が自ら出るに足りません。もし勝っても、武功とするに足りない。もし勝てなければ、かえって笑われます。伏して願わくは、良将に委ねられれば、時に応じて自ずと滅ぼせましょう」。太宗はその諫めに従わなかったが、識者はこれを正しいとした。
解説
この章句が説くこと
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貞観政要・征伐貞観十八年、太宗は高麗の莫離支の其の主を賊殺し、其の下を残虐するを以て、議して将に之を討たんとす。諫議大夫褚遂良進みて曰く、「陛下の兵機神算は、人の能く知る莫し。昔、隋末の乱離に、寇難を克平す。北狄の辺を侵し、西蕃の礼を失うに及び、陛下は将に命じて之を撃たんと欲す。群臣は苦諫せざる莫し。惟だ陛下の明略独断もて、卒に並びに誅夷す。今、陛下の将に高麗を伐たんとするを聞き、意は皆な熒惑(けいわく)す。然れども陛下の神武英声は、周・隋の主に比せず。兵、若し遼を渡らば、事は須らく克捷すべし。万一獲ずんば、以て遠方に威を示す無し。必ず更に発怒し、再び兵衆を動かさん。若し此に至らば、安危は測り難し」と。太宗之を然りとす。
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貞観政要・征伐臣聞く、兵は戢(おさ)めざるを悪み、武は戈を止むるを貴ぶ、と。当今、聖化の覃(およ)ぶ所、遠しとして暨(いた)らざる無し。上古の臣とせざる所の者、陛下は皆な能く之を臣とす。制せざる所の者、皆な能く之を制す。詳らかに古今を観るに、中国の患害と為るは、突厥に過ぐるは無し。遂に能く坐して神策を運らし、殿堂を下らずして、大小の可汗、相い次いで手を束ぬ。禁衛を分典し、戟を執りて行間にあり。其の後、延陀は鴟張す。尋いで夷滅に就く。鉄勒は義を慕い、州県を置かんことを請う。沙漠已北、万里に塵無し。高昌の流沙に叛渙し、吐渾の積石に首鼠するが如きに至りては、偏師もて薄伐し、倶に平蕩に従う。高麗は歴代誅を逋(のが)れ、能く討撃する莫し。陛下は其の逆乱、主を殺し人を虐ぐるを責め、親ら六軍を総べ、罪を遼碣に問う。未だ旬日を経ずして、即ち遼東を抜く。前後の虜獲、数十万を計る。諸州に分配し、満たざる処無し。往代の宿恥を雪ぎ、崤陵の枯骨を掩う。功を比べ徳を校ぶるに、前王に万倍す。此れ聖主の自ら知る所なり。微臣安くんぞ敢えて備さに説かんや。
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貞観政要・征伐礼部尚書江夏王道宗、太宗に従いて高麗を征す。詔して道宗と李勣とを前鋒と為す。遼水を済(わた)り蓋牟城を克つに及び、賊兵の大いに至るに逢う。軍中は僉(みな)溝を深くし険を保ち、太宗の至るを待ちて、徐(おもむ)ろに進まんと欲す。道宗議して曰く、「不可なり。賊は急に赴きて遠く来たる。兵は実に疲頓す。衆を恃みて我を軽んず。一戦にして摧くべし。昔、耿弇は賊を以て君父に遺(のこ)さず。我は既に職は前軍に在り。当に須らく道を清めて以て輿駕を待つべし」と。李勣大いに其の議を然りとす。乃ち驍勇数百騎を率い、直ちに賊陣を衝く。左右に出入す。勣因りて合撃し、大いに之を破る。太宗至り、深く賞労を加う。道宗は陣に在りて足を損ず。帝は親ら為に針灸し、賜うに御膳を以てす。
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貞観政要・征伐貞観四年、有司上言す、「林邑の蛮国、表疏は不順なり。請う、兵を発して之を討撃せん」と。太宗曰く、「兵は凶器なり。已むを得ずして之を用う。故に漢の光武云う、『一たび兵を発する毎に、覚えず頭須の白と為る』と。古より以来、兵を窮め武を極めて、亡びざる者は未だ有らざるなり。苻堅は自ら兵の強きを恃み、必ず晋室を吞まんと欲す。兵を興すこと百万、一挙にして亡ぶ。隋主も亦た必ず高麗を取らんと欲し、頻年労役す。人は怨みに勝えず。遂に匹夫の手に死す。頡利の如きに至りては、往歳、数々来たりて我が国家を侵す。部落は征役に疲れ、遂に滅亡に至る。朕は今、此を見る。豈に輒ち即ち兵を発するを得んや。但だ山険を経歴し、土は瘴癘多し。若し我が兵士疾疫せば、此の蛮を克剪すと雖も、亦た何の補う所ぞ。言語の間、何ぞ介意するに足らんや」と。竟に之を討たず。
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貞観政要・征伐貞観十六年、太宗侍臣に謂いて曰く、「北狄は世々寇乱を為す。今、延陀は倔強なり。須らく早く之が所を為すべし。朕は熟ら之を思う。惟だ二策有るのみ。徒十万を選び、撃ちて之を虜とし、凶醜を滌除せば、百年患い無し。此れ一策なり。若し其の来請に遂い、之と婚媾を為さば、朕は蒼生の父母と為る。苟も之を利すべくんば、豈に一女を惜しまんや。北狄の風俗、多くは内政に由る。亦た既に子を生まば、則ち我が外孫なり。中国を侵さざること、断じて知るべし。此を以て言えば、辺境は三十年来事無きを得るに足る。此の二策を挙ぐるに、何者か先と為す」と。司空房玄齢対えて曰く、「隋室大乱の後に遭い、戸口は太半未だ復せず。兵は凶にして戦は危し。聖人の慎む所なり。和親の策、実に天下幸甚なり」と。
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貞観政要・征伐貞観二十二年、太宗将に重ねて高麗を討たんとす。是の時、房玄齢は寝疾増劇す。顧みて諸子に謂いて曰く、「当今、天下は清謐にして、咸な其の宜しきを得たり。惟だ東のかた高麗を討たんと欲するのみ、主に国害と為る。吾は知りて言わずんば、恨みを銜(ふく)みて地に入ると謂うべし」と。遂に表を上りて諫めて曰く、
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