貞観政要 / 征伐
貞觀十四年,兵部尚書侯君集伐高昌,及師次柳谷,候騎言:「高昌王麴文泰死,克日將葬,國人咸集,以二千輕騎襲之,可盡得也。」副將薛萬均、姜行本皆以為然。君集曰:「天子以高昌驕慢,使吾恭行天誅。乃於墟墓間以襲其葬,不足稱武,此非問罪之師也。」遂按兵以待葬畢,然後進軍,遂平其國。
新字:貞観十四年,兵部尚書侯君集伐高昌,及師次柳谷,候騎言:「高昌王麴文泰死,克日将葬,国人咸集,以二千軽騎襲之,可尽得也。」副将薛万均、姜行本皆以為然。君集曰:「天子以高昌驕慢,使吾恭行天誅。乃於墟墓間以襲其葬,不足称武,此非問罪之師也。」遂按兵以待葬畢,然後進軍,遂平其国。
書き下し
貞観十四年、兵部尚書侯君集、高昌を伐つ。師の柳谷に次(やど)るに及び、候騎言う、「高昌王麴文泰死す。日を克して将に葬らんとす。国人は咸な集まる。二千の軽騎を以て之を襲わば、尽く得べきなり」と。副将薛万均・姜行本、皆な以て然りと為す。君集曰く、「天子は高昌の驕慢なるを以て、吾をして恭しく天誅を行わしむ。乃ち墟墓の間に於て以て其の葬を襲うは、武と称するに足らず。此れ罪を問うの師に非ざるなり」と。遂に兵を按じて以て葬の畢わるを待ち、然る後に軍を進め、遂に其の国を平らぐ。
現代語訳
貞観十四年、兵部尚書の侯君集が高昌を討った。軍が柳谷に宿営した時、偵察の騎兵が言った。「高昌王の麴文泰が死にました。日を定めて葬ろうとしています。国中の人が集まります。二千の軽騎で襲えば、すべて手に入ります」。副将の薛万均と姜行本は、みなその通りだと考えた。侯君集は言った。「天子は高昌が驕り高ぶっているので、私に慎んで天の誅を行わせている。それなのに墓場で葬儀を襲うのは、武と称するに足りない。罪を問う軍ではない」。そして兵を留めて葬儀が終わるのを待ち、その後に軍を進め、ついにその国を平らげた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
貞観政要・安辺貞観十四年、侯君集、高昌を平らげし後、太宗は其の地を以て州県と為さんと欲す。魏徴曰く、「陛下、初めて天下に臨む。高昌王は先に来たりて朝謁す。自後、数々商胡有りて、其の貢献を遏絶すと称す。加うるに大国の詔使に礼せざるを以てす。遂に王誅をして加えしむ。若し罪を文泰に止めば、斯れ亦た可なり。未だ因りて其の民を撫し、其の子を立つるに若かず。所謂る罪を伐ち民を吊す。威徳は遐外に被る。国を為むるの善なる者なり。今、若し其の土壌を利として以て州県と為さば、常に千余人を須(もち)いて鎮守せしめ、数年に一たび易(か)う。来往交替する毎に、死する者は十に三四有り。衣資を遣辦(けんべん)し、親戚に離別す。十年の後、隴右は空虚ならん。陛下は終に高昌の撮谷尺布をも得て以て中国を助くること能わず。所謂る有用を散じて無用を事とするなり。臣は未だ其の可なるを見ず」と。太宗従わず。竟に其の地を以て西州を置く。仍お西州を以て安西都護府と為す。毎歳、千余人を調発して其の地を防遏せしむ。
-
貞観政要・征伐臣聞く、兵は戢(おさ)めざるを悪み、武は戈を止むるを貴ぶ、と。当今、聖化の覃(およ)ぶ所、遠しとして暨(いた)らざる無し。上古の臣とせざる所の者、陛下は皆な能く之を臣とす。制せざる所の者、皆な能く之を制す。詳らかに古今を観るに、中国の患害と為るは、突厥に過ぐるは無し。遂に能く坐して神策を運らし、殿堂を下らずして、大小の可汗、相い次いで手を束ぬ。禁衛を分典し、戟を執りて行間にあり。其の後、延陀は鴟張す。尋いで夷滅に就く。鉄勒は義を慕い、州県を置かんことを請う。沙漠已北、万里に塵無し。高昌の流沙に叛渙し、吐渾の積石に首鼠するが如きに至りては、偏師もて薄伐し、倶に平蕩に従う。高麗は歴代誅を逋(のが)れ、能く討撃する莫し。陛下は其の逆乱、主を殺し人を虐ぐるを責め、親ら六軍を総べ、罪を遼碣に問う。未だ旬日を経ずして、即ち遼東を抜く。前後の虜獲、数十万を計る。諸州に分配し、満たざる処無し。往代の宿恥を雪ぎ、崤陵の枯骨を掩う。功を比べ徳を校ぶるに、前王に万倍す。此れ聖主の自ら知る所なり。微臣安くんぞ敢えて備さに説かんや。
-
貞観政要・安辺十六年に至り、西突厥、兵を遣わして西州を寇す。太宗侍臣に謂いて曰く、「朕は西州に警急有りと聞く。害を為すに足らずと雖も、然れども豈に能く憂い無からんや。往者、初めて高昌を平らぐ。魏徴・褚遂良は朕に麴文泰の子弟を立て、旧に依りて国と為さんことを勧む。朕は竟に其の計を用いず。今日、方に自ら悔責す。昔、漢の高祖は平城の囲に遭いて婁敬を賞す。袁紹は官渡に敗れて田豊を誅す。朕は恒に此の二事を以て誡と為す。寧ぞ言う所の者を忘るるを得んや」と。
-
貞観政要・安辺黄門侍郎褚遂良も亦た以て不可と為す。疏を上りて曰く、「臣聞く、古者、哲后の朝に臨み、明王の業を創むるや、必ず華夏を先にして夷狄を後にす。諸々の徳化を広め、遐荒を事とせず、と。是を以て周宣は薄伐し、境に至りて反(かえ)る。始皇は遠く塞ぎ、中国分離す。陛下は高昌を誅滅し、威は西域に加わる。其の鯨鯢を収め、以て州県と為す。然れば則ち王師の初めて発するの歳、河西の役に供するの年、芻を飛ばし粟を挽き、十室九空なり。数郡は蕭然たり。五年にして復せず。陛下は毎歳千余人を遣わして遠く屯戍を事とす。終年離別し、万里に帰を思う。去る者の資装は、自ら営辦を須(もち)う。既に菽粟を売り、其の機杼を傾く。途を経て死亡するは、復た言外に在り。兼ねて罪人を遣わし、其の防遏を増す。遣わす所の内、復た逃亡有り。官司は捕捉し、国の為に事を生ず。高昌の途路は、沙磧千里。冬の風は冰冽、夏の風は焚くが如し。行人は之に遇わば多く死す。『易』に云う『安くして危うきを忘れず、治まりて乱るるを忘れず』と。設令(たと)い張掖に塵飛び、酒泉に烽挙がらば、陛下は豈に能く高昌の一人の菽粟を得て事に及ばんや。終に須らく隴右の諸州を発し、星馳電撃すべし。斯れに由りて言えば、此の河西なる者は心腹に方(なぞら)え、彼の高昌なる者は他人の手足なり。豈に中華を糜費して、以て無用を事とするを得んや。陛下は頡利を沙塞に平らげ、吐渾を西海に滅ぼす。突厥の余落は、為に可汗を立つ。葉渾の遺萌は、更に君長を樹つ。復た高昌を立つるは、前例無きに非ず。此れ所謂る罪有りて之を誅し、既に服して之を存す、なり。宜しく高昌の立つべき者を択び、首領を徴給し、遣わして本国に還さば、洪恩を負戴し、長く藩翰と為らん。中国は擾されず。既に富み且つ寧し。之を子孫に伝え、以て後代に貽(のこ)さん」と。疏奏するも、納れられず。
-
貞観政要・征伐貞観十八年、太宗は高麗の莫離支の其の主を賊殺し、其の下を残虐するを以て、議して将に之を討たんとす。諫議大夫褚遂良進みて曰く、「陛下の兵機神算は、人の能く知る莫し。昔、隋末の乱離に、寇難を克平す。北狄の辺を侵し、西蕃の礼を失うに及び、陛下は将に命じて之を撃たんと欲す。群臣は苦諫せざる莫し。惟だ陛下の明略独断もて、卒に並びに誅夷す。今、陛下の将に高麗を伐たんとするを聞き、意は皆な熒惑(けいわく)す。然れども陛下の神武英声は、周・隋の主に比せず。兵、若し遼を渡らば、事は須らく克捷すべし。万一獲ずんば、以て遠方に威を示す無し。必ず更に発怒し、再び兵衆を動かさん。若し此に至らば、安危は測り難し」と。太宗之を然りとす。
-
貞観政要・君臣鑑戒貞観十四年、太宗高昌の平らぐを以て、侍臣を召して宴を両儀殿に賜う。房玄齢に謂いて曰く、「高昌若し臣礼を失わずんば、豈に滅亡に至らんや。朕は此の一国を平らぐるも、甚だ危懼を懐く。惟だ当に驕逸を戒めて以て自ら防ぎ、忠謇を納れて以て自ら正すべし。邪佞を黜(しりぞ)け、賢良を用う。小人の言を以て君子を議せず。此を以て慎み守らば、庶幾(ちか)くは安きを獲んか」と。魏徴進みて曰く、「臣、古来の帝王の乱を撥(おさ)め業を創むるを観るに、必ず自ら戒慎し、芻蕘の議を采り、忠讜の言に従う。天下既に安んずれば、則ち情を恣にし欲を肆にし、諂諛を甘楽し、正諫を聞くを悪む。張子房は漢王の計画の臣なり。高祖の天子と為るに及び、将に嫡を廃して庶を立てんとす。子房曰く、『今日の事は、口舌の能く争う所に非ざるなり』と。終に敢えて復た開説する有らず。況んや陛下の功徳の盛んなる、漢祖を以て之に方(くら)ぶれば、彼は準と為すに足らず。位に即きて十有五年、聖徳光被し、今又た高昌を平殄す。屢々安危を以て意に系(か)け、方に忠良を納用し、直言の路を開かんと欲す。天下幸甚なり。昔、斉の桓公は管仲・鮑叔牙・寧戚の四人と飲む。桓公叔牙に謂いて曰く、『盍(なん)ぞ起ちて寡人の為に寿せざる』と。叔牙は觴を奉じて起ちて曰く、『願わくは公は莒に出でし時を忘るる無かれ。管仲をして魯に束縛せられし時を忘るる無からしめよ。寧戚をして牛に飯(か)いて車下にありし時を忘るる無からしめよ』と。桓公席を避けて謝して曰く、『寡人と二大夫と、能く夫子の言を忘るる無くんば、則ち社稷危うからじ』と」と。太宗徴に謂いて曰く、「朕は必ず敢えて布衣の時を忘れず。公も叔牙の人と為りを忘るるを得ざれ」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る