貞観政要 / 礼楽
貞觀十三年,禮部尚書王珪奏言:「準令,三品以上,遇親王於路,不合下馬,今皆違法申敬,有乖朝典。」太宗曰:「卿輩欲自崇貴,卑我兒子耶?」魏徵對曰:「漢、魏已來,親王班皆次三公下。今三品並天子六尚書九卿,為王下馬,王所不宜當也。求諸故事,則無可憑,行之於今,又乖國憲,理誠不可。」帝曰:「國家立太子者,擬以為君。人之修短,不在老幼。設無太子,則母弟次立。以此而言,安得輕我子耶?」徵又曰:「殷人尚質,有兄終弟及之義。自周已降,立嫡必長,所以絕庶孽之窺窬,塞禍亂之源本。為國家者,所宜深慎。」太宗遂可王珪之奏。
新字:貞観十三年,礼部尚書王珪奏言:「準令,三品以上,遇親王於路,不合下馬,今皆違法申敬,有乖朝典。」太宗曰:「卿輩欲自崇貴,卑我児子耶?」魏徴対曰:「漢、魏已来,親王班皆次三公下。今三品並天子六尚書九卿,為王下馬,王所不宜当也。求諸故事,則無可憑,行之於今,又乖国憲,理誠不可。」帝曰:「国家立太子者,擬以為君。人之修短,不在老幼。設無太子,則母弟次立。以此而言,安得軽我子耶?」徴又曰:「殷人尚質,有兄終弟及之義。自周已降,立嫡必長,所以絶庶孽之窺窬,塞禍乱之源本。為国家者,所宜深慎。」太宗遂可王珪之奏。
書き下し
貞観十三年、礼部尚書王珪奏言す、「令に準ずるに、三品以上は、親王に路に遇うも、馬を下るに合わず。今、皆な法に違いて敬を申(の)ぶ。朝典に乖く有り」と。太宗曰く、「卿輩は自ら崇貴ならんと欲し、我が児子を卑しむか」と。魏徴対えて曰く、「漢・魏より已来、親王の班は皆な三公の下に次ぐ。今、三品は並びに天子の六尚書・九卿なり。王の為に馬を下るは、王の当たるに宜しからざる所なり。諸を故事に求むれば、則ち憑るべき無く、之を今に行えば、又た国憲に乖く。理は誠に不可なり」と。帝曰く、「国家の太子を立つるは、擬して以て君と為さんとす。人の修短は、老幼に在らず。設(も)し太子無くんば、則ち母弟次いで立つ。此を以て言えば、安くんぞ我が子を軽んずるを得んや」と。徴又た曰く、「殷人は質を尚ぶ。兄終わりて弟及ぶの義有り。周より已降、嫡を立つるに必ず長。庶孽の窺窬(きゆ)を絶ち、禍乱の源本を塞ぐ所以なり。国家を為むる者、宜しく深く慎むべき所なり」と。太宗遂に王珪の奏を可とす。
現代語訳
貞観十三年、礼部尚書の王珪が奏上した。「法令によれば、三品以上の官は、道で親王に出会っても、馬を下りる必要はありません。今はみな法に反して敬意を示しています。朝廷の典に背いています」。太宗は言った。「あなたがたは自らを尊くしたくて、私の子を卑しめるのか」。魏徴が答えて言った。「漢・魏以来、親王の序列は三公の下に置かれました。今、三品はみな天子の六尚書と九卿です。王のために馬を下りるのは、王が受けるべきものではありません。故事に求めても拠り所がなく、今行えば国法に背きます。道理として不可です」。帝は言った。「国家が太子を立てるのは、君主とするためだ。人の寿命は、老いも若きも関係ない。もし太子がいなければ、同母の弟が次いで立つ。こう言えば、どうして私の子を軽んじてよいのか」。魏徴はまた言った。「殷の人は質朴を尊び、兄が終われば弟が継ぐという義がありました。周以降は、嫡子を立てるのに必ず長子とします。庶子が窺うことを断ち、禍乱の源を塞ぐためです。国家を治める者は、深く慎むべきところです」。太宗はついに王珪の奏上を認めた。
解説
この章句が説くこと
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史記 五帝本紀堯子丹朱の不肖にして、天下を授くるに足らざるを知る。是に於て乃ち権りて舜に授く。舜に授くれば、則ち天下其の利を得て丹朱病む。丹朱に授くれば、則ち天下病みて丹朱其の利を得。堯曰く、「終に天下の病を以て一人を利せず」と。而して卒に舜に授くるに天下を以てす。堯崩じ、三年の喪畢はり、舜丹朱に譲りて南河の南に辟く。諸侯の朝覲する者は丹朱に之かずして舜に之き、獄訟する者は丹朱に之かずして舜に之き、謳歌する者は丹朱を謳歌せずして舜を謳歌す。舜曰く、「天なるかな」と。而る後に中国に之きて天子の位を践む。是を帝舜と為す。虞舜は、名を重華と曰ふ。重華の父を瞽叟と曰ひ、瞽叟の父を橋牛と曰ひ、橋牛の父を句望と曰ひ、句望の父を敬康と曰ひ、敬康の父を窮蟬と曰ひ、窮蟬の父を帝顓頊と曰ひ、顓頊の父を昌意と曰ふ。以て舜に至るまで七世なり。窮蟬より以て帝舜に至るまで、皆微にして庶人為り。舜の父瞽叟は盲にして、舜の母死し、瞽叟更に妻を娶りて象を生む。象は傲なり。瞽叟後妻の子を愛し、常に舜を殺さんと欲す。舜避け逃る。小過有るに及べば、則ち罪を受く。父及び後母と弟とに順事し、日に以て篤謹にして、懈ること有る匪し。舜は、冀州の人なり。舜歴山に耕し、雷沢に漁し、河浜に陶し、什器を寿丘に作り、時に負夏に就く。舜の父瞽叟は頑、母は嚚、弟象は傲にして、皆舜を殺さんと欲す。舜順適して子の道を失はず、兄弟に孝慈なり。殺さんと欲するも、得可からず。即ち求むれば、嘗に側に在り。舜年二十にして孝を以て聞こゆ。三十にして帝堯用ゐる可き者を問ふに、四嶽咸虞舜を薦めて、可なりと曰ふ。
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