貞観政要 / 礼楽
貞觀五年,太宗謂侍臣曰:「佛道設教,本行善事,豈遣僧尼道士等妄自尊崇,坐受父母之拜,損害風俗,悖亂禮經,宜即禁斷,仍令致拜於父母。」
新字:貞観五年,太宗謂侍臣曰:「仏道設教,本行善事,豈遣僧尼道士等妄自尊崇,坐受父母之拝,損害風俗,悖乱礼経,宜即禁断,仍令致拝於父母。」
書き下し
貞観五年、太宗侍臣に謂いて曰く、「仏道の教えを設くるは、本と善事を行わしむ。豈に僧尼・道士等をして妄りに自ら尊崇し、坐して父母の拝を受け、風俗を損害し、礼経を悖乱せしめんや。宜しく即ち禁断し、仍お父母に致拝せしむべし」と。
現代語訳
貞観五年、太宗が側近の臣に言った。「仏教や道教が教えを設けたのは、もともと善き事を行わせるためだ。どうして僧や尼、道士たちが、みだりに自らを尊び、座ったまま父母の拝礼を受け、風俗を損ない、礼の経典を乱してよいのか。ただちに禁じ、父母に拝礼させよ」。
解説
当時、僧や尼、道士といった出家した人たちは、俗世を離れた特別な身分だとして、実の親からの拝礼をそのまま座って受けることがありました。太宗はこれを禁じます。『仏や道の教えは、もともと人に善い行いをさせるために説かれたものだ。それなのに、僧や道士たちがみだりに自分を偉く見せて、親に頭を下げさせるとは何ごとか』と言い、必ず親に拝礼するよう命じました。人を良くするための修行が、いつの間にか親を見下す口実に変わってしまう。手段が、本来の目的から離れてしまった姿です。これは今の暮らしにも通じます。健康のための習い事や、人格を磨くための学びが、いつしか他人を見下す道具になってしまうことがあります。何のために始めたのかを忘れた形だけの行いは、かえって害になるのです。
この章句が説くこと
仏道設教本行善事坐受父母之拝手段が目的を離れる