貞観政要 / 悔過
貞觀十八年,太宗謂侍臣曰:「夫人臣之對帝王,多承意順旨,甘言取容。朕今欲聞己過,卿等皆可直言。」散騎常侍劉洎對曰:「陛下每與公卿論事,及有上書者,以其不稱旨,或面加詰難,無不慚退,恐非誘進直言之道。」太宗曰:「朕亦悔有此問難,當即改之。」
新字:貞観十八年,太宗謂侍臣曰:「夫人臣之対帝王,多承意順旨,甘言取容。朕今欲聞己過,卿等皆可直言。」散騎常侍劉洎対曰:「陛下毎与公卿論事,及有上書者,以其不称旨,或面加詰難,無不慚退,恐非誘進直言之道。」太宗曰:「朕亦悔有此問難,当即改之。」
書き下し
貞観十八年、太宗侍臣に謂いて曰く、「夫れ人臣の帝王に対するや、多くは意を承け旨に順い、甘言もて容を取る。朕は今、己の過ちを聞かんと欲す。卿等皆な直言すべし」と。散騎常侍劉洎対えて曰く、「陛下は公卿と事を論ずる毎に、及び書を上る者有るに、其の旨に称わざるを以て、或いは面に詰難を加う。慚じて退かざる無し。恐らくは直言を誘進するの道に非ず」と。太宗曰く、「朕も亦た此の問難有るを悔ゆ。当に即ち之を改むべし」と。
現代語訳
貞観十八年、太宗が側近の臣に言った。「そもそも臣下が帝王に対する時、多くは意を汲み意向に従い、甘い言葉で気に入られようとする。私は今、自分の過ちを聞きたい。諸君はみな直言せよ」。散騎常侍の劉洎が答えて言った。「陛下は公卿と事を論じるたび、また上書する者があるたび、意にかなわないと、面と向かって問い詰められます。恥じて退かない者はありません。恐らく直言を引き出す道ではありません」。太宗は言った。「私もこの問い詰めを悔いている。ただちに改めよう」。
解説
「悔過」篇を締めくくる章句です。太宗は「そもそも臣下は帝王に対して、多くは相手の気持ちを汲み取り、意向に従い、甘い言葉で気に入られようとするものだ。私は今、自分の過ちを聞きたい。諸君はみな率直に言ってほしい」と側近たちに求めました。すると劉洎が答えます。「陛下は公卿と議論をするたびに、また上奏する者があるたびに、意にかなわないと面と向かって問い詰められます。恥じ入って引き下がらない者はありません。これでは率直な言葉を引き出す道とは言えません」。過ちを言えと求めながら、実際には問い詰めて相手を萎縮させていた、というのです。求める姿勢そのものに問題があると指摘されたわけです。それに対して太宗は「私もこの問い詰めを悔いている。ただちに改めよう」と即座に応じました。指摘された瞬間に、言い訳をせずすぐさま態度を変えること。家庭でも近所付き合いでも、これがもっとも難しいことなのです。
この章句が説くこと
或面加詰難無不慚退朕亦悔有此問難当即改之求め方そのものが問題諫言
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葉隠・聞書第一諫言(かんげん)の道に、我(われ)其の位(くらい)にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤(おあやまり)直(なお)る様にするが大忠(たいちゅう)なり。此の階(かい)の為に諸人(しょにん)と懇意(こんい)する所なり。我が為にすれば追従(ついしょう)なり。一方(いっぽう)は我等(われら)荷(にな)ひ申す心入(こころいれ)からなり。成程(なるほど)なるものなり。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 楽書上は朝廷より、下は人民に至るまで、以て歓喜を接し、殷勤を合するを得、此の和説に非ずんば通ぜず、解沢流れず、亦各々一世の化、時を度るの楽なり、何ぞ必ずしも華山の騄耳にして而る後に遠きを行かんや」と。二世之を然りとす。高祖、沛を過りて三侯の章を詩し、小児をして之を歌はしむ。高祖崩じ、沛をして四時に宗廟に歌舞するを得しむ。孝恵・孝文・孝景は増更する所無く、楽府に於いて常を習ひ旧を肄ふのみ。今上即位するに至り、十九章を作り、侍中李延年をして其の声を次序せしめ、拝して協律都尉と為す。一経に通ずるの士も独り其の辞を知る能はず、皆五経の家を集会し、相与に共に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知す、多く爾雅の文なり。漢家常に正月上辛を以て太一を甘泉に祠り、昏時を以て夜祠り、明に到りて終はる。常に流星の祠壇の上を経る有り。僮男僮女七十人をして俱に歌はしむ。春は青陽を歌ひ、夏は朱明を歌ひ、秋は西暤を歌ひ、冬は玄冥を歌ふ。世に多く有り、故に論ぜず。又嘗て神馬を渥洼の水中に得て、復た次して以て太一の歌と為す。歌曲に曰く、「太一貢ぎて天馬下る、赤汗に霑ひて沫赭を流す。騁せて容与として万里を跇ゆ、今安んぞ匹せん、龍を友と為す」と。後に大宛を伐ちて千里の馬を得、馬の名は蒲梢、次して作りて以て歌と為す。歌詩に曰く、「天馬来たる、西極よりす。万里を経て有徳に帰す。霊威を承けて外国を降し、流沙を渉りて四夷服す」と。中尉汲黯進みて曰く、「凡そ王者の楽を作るは、上は以て祖宗を承け、下は以て兆民を化す。今陛下馬を得て、詩して以て歌と為し、宗廟に協す、先帝百姓豈に能く其の音を知らんや」と。上黙然として説ばず。丞相公孫弘曰く、「黯は聖制を誹謗す、当に族すべし」と。凡そ音の起こるは、人心より生ずるなり。人心の動くは、物之をして然らしむるなり。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。
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