貞観政要 / 仁惻
貞觀十九年,太宗征高麗,次定州,有兵士到者,帝御州城北門樓撫慰之。有從卒一人病,不能進。詔至床前,問其所苦,仍敕州縣醫療之。是以將士莫不欣然願從。及大軍回次柳城,詔集前後戰亡人骸骨,設太牢致祭,親臨,哭之盡哀,軍人無不灑泣。兵士觀祭者,歸家以言,其父母曰:「吾兒之喪,天子哭之,死無所恨。」太宗征遼東,攻白巖城,右衛大將軍李思摩為流矢所中,帝親為吮血,將士莫不感勵。
新字:貞観十九年,太宗征高麗,次定州,有兵士到者,帝御州城北門楼撫慰之。有従卒一人病,不能進。詔至床前,問其所苦,仍勅州県医療之。是以将士莫不欣然願従。及大軍回次柳城,詔集前後戦亡人骸骨,設太牢致祭,親臨,哭之尽哀,軍人無不灑泣。兵士観祭者,歸家以言,其父母曰:「吾児之喪,天子哭之,死無所恨。」太宗征遼東,攻白巖城,右衛大将軍李思摩為流矢所中,帝親為吮血,将士莫不感勵。
書き下し
貞観十九年、太宗高麗を征す。定州に次(やど)る。兵士の到る者有り。帝は州城の北門楼に御して之を撫慰す。従卒一人病みて、進む能わざる有り。詔して床前に至らしめ、其の苦しむ所を問う。仍お州県に敕して之を医療せしむ。是を以て将士は欣然として従わんことを願わざる莫し。大軍回りて柳城に次るに及び、詔して前後の戦亡せる人の骸骨を集め、太牢を設けて祭を致さしむ。親ら臨みて、之を哭して哀を尽くす。軍人は灑泣せざる無し。兵士の祭を観る者、家に帰りて以て言う。其の父母曰く、「吾が児の喪、天子之を哭す。死すとも恨む所無し」と。太宗遼東を征し、白巌城を攻む。右衛大将軍李思摩、流矢の中(あ)つる所と為る。帝親ら為に血を吮(す)う。将士は感励せざる莫し。
現代語訳
貞観十九年、太宗が高句麗を征伐した。定州に宿営した時、到着した兵士があった。帝は州城の北門の楼に出て、彼らを慰めた。従軍の兵の一人が病んで、進めなかった。詔して寝床の前まで来させ、どこが苦しいかを尋ねた。そして州県に命じて治療させた。これによって将兵は、みな喜んで従いたいと願った。大軍が引き返して柳城に宿営した時、詔して前後の戦死者の遺骨を集め、盛大な祭祀を行わせた。自ら臨んで、声を上げて泣き、哀しみを尽くした。軍人で涙を流さない者はなかった。祭を見た兵士が家に帰って話すと、その父母は言った。「我が子の喪を、天子が泣いてくださった。死んでも悔いはない」。太宗が遼東を征伐し、白巌城を攻めた時、右衛大将軍の李思摩が流れ矢に当たった。帝は自ら傷口の血を吸った。将兵で感激し奮い立たない者はなかった。