貞観政要 / 孝友
貞觀中,有突厥史行昌直玄武門,食而舍肉,人問其故,曰:「歸以奉母。」太宗聞而嘆曰:「仁孝之性,豈隔華夷?」賜尚乘馬一疋,詔令給其母肉料。
新字:貞観中,有突厥史行昌直玄武門,食而舎肉,人問其故,曰:「帰以奉母。」太宗聞而嘆曰:「仁孝之性,豈隔華夷?」賜尚乗馬一疋,詔令給其母肉料。
書き下し
貞観中、突厥の史行昌有り。玄武門に直(とのい)す。食して肉を舎(お)く。人其の故を問う。曰く、「帰りて以て母に奉ぜん」と。太宗聞きて嘆じて曰く、「仁孝の性は、豈に華夷を隔てんや」と。尚乗の馬一疋を賜い、詔して其の母に肉料を給せしむ。
現代語訳
貞観年間、突厥の史行昌という者があった。玄武門で宿直していた。食事の際、肉を残した。人がその理由を尋ねた。答えて言った。「持ち帰って母に差し上げるのです」。太宗はこれを聞いて嘆じて言った。「仁と孝の性質に、どうして中華と異民族の隔てがあろうか」。宮廷の馬一頭を賜り、詔してその母に肉を支給させた。
解説
孝友篇の最後を締めくくる話です。宮中で宿直をしていた突厥出身の兵士が、食事の肉を残していました。理由を尋ねると「持ち帰って母に差し上げるのです」と答えます。太宗はこれを聞いて、「親を思い、いたわる心に、生まれた土地や民族の違いなど関係あろうか」と感嘆し、馬を与え、その母に肉を届けさせています。当時、異民族は文化の劣る野蛮な者として見下されることが多かった時代です。太宗はそこに線を引きませんでした。人としての値打ちは、生まれや育ちではなく、日々の小さな行いの中に表れる。出身地や言葉の違う相手であっても、親を思う気持ちに変わりはないという当たり前のことを、素直に認められる姿勢が光る一段です。
この章句が説くこと
仁孝之性豈隔華夷食而舎肉帰以奉母線を引かない度量
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