貞観政要 / 孝友
霍王元軌,武德中,初封為吳王,貞觀七年,為壽州刺史。屬高祖崩,去職,毀瘠過禮。自後常衣布服,示有終身之戚。太宗嘗問侍臣曰:「朕子弟孰賢?」侍中魏徵對曰:「臣愚暗,不盡知其能,惟吳王數與臣言,臣未嘗不自失。」太宗曰:「卿以為前代誰比?」徵曰:「經學文雅,亦漢之間、平,至如孝行,乃古之曾、閔也。」由是寵遇彌厚,因令妻徵女焉。
新字:霍王元軌,武徳中,初封為呉王,貞観七年,為寿州刺史。属高祖崩,去職,毀瘠過礼。自後常衣布服,示有終身之戚。太宗嘗問侍臣曰:「朕子弟孰賢?」侍中魏徴対曰:「臣愚暗,不尽知其能,惟呉王数与臣言,臣未嘗不自失。」太宗曰:「卿以為前代誰比?」徴曰:「経学文雅,亦漢之間、平,至如孝行,乃古之曽、閔也。」由是寵遇弥厚,因令妻徴女焉。
書き下し
霍王元軌は、武徳中、初め封ぜられて呉王と為る。貞観七年、寿州刺史と為る。高祖の崩ずるに属し、職を去り、毀瘠(きせき)すること礼に過ぐ。自後、常に布服を衣(き)て、終身の戚(うれ)い有るを示す。太宗嘗て侍臣に問いて曰く、「朕の子弟、孰(たれ)か賢なる」と。侍中魏徴対えて曰く、「臣は愚暗にして、尽くは其の能を知らず。惟だ呉王のみ数々臣と言う。臣は未だ嘗て自ら失せずんばあらず」と。太宗曰く、「卿は以て前代の誰に比すと為す」と。徴曰く、「経学文雅は、亦た漢の間・平なり。孝行の如きに至りては、乃ち古の曾・閔なり」と。是に由りて寵遇弥々厚し。因りて徴の女を妻あわしむ。
現代語訳
霍王李元軌は、武徳年間、初め呉王に封じられた。貞観七年、寿州刺史となった。高祖が崩御すると職を辞し、悲しみのあまり痩せ衰えることが礼を越えた。それ以来、常に粗末な布の衣を着て、生涯の悲しみがあることを示した。太宗がかつて側近の臣に尋ねた。「私の子弟のうち、誰が賢いか」。侍中の魏徴が答えて言った。「臣は愚かで、その才能をすべて知りません。ただ呉王だけは、たびたび臣と語ります。臣は、そのたびに自分を見失わないことがありません」。太宗は言った。「あなたは前代の誰に比べるか」。魏徴は言った。「経学と文雅は、漢の河間王や東平王です。孝行に至っては、古の曾参や閔子騫です」。これによって寵愛はますます厚くなった。そこで魏徴の娘を妻に迎えさせた。
解説
この章句が説くこと
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貞観政要・孝友韓王元嘉は、貞観の初め、潞州刺史と為る。時に年十五。州に在りて太妃の疾有るを聞き、便ち涕泣して食らわず。京師に至りて発喪するに及び、哀毀して礼に過ぐ。太宗其の至性を嘉し、屢々之を慰勉す。元嘉は閨門修整し、寒素の士大夫に類する有り。其の弟魯哀王霊夔と甚だ相い友愛す。兄弟集見するに、布衣の礼の如し。其の身を修め己を潔くし、内外一の如きは、当代の諸王、能く及ぶ者莫し。
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貞観政要・任賢魏徴は、鉅鹿(きょろく)の人なり。近ごろ家を相州の内黄に徙(うつ)す。武徳の末、太子洗馬(せんば)と為る。太宗と隠太子と陰かに相い傾奪するを見て、毎に建成に勧めて早く之が謀を為さしむ。太宗既に隠太子を誅し、徴を召して之を責めて曰く、「汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや」と。衆皆な之が為に危懼す。徴、慷慨自若として、従容として対えて曰く、「皇太子若し臣の言に従わば、必ず今日の禍無からん」と。太宗之が為に容を斂(おさ)め、厚く礼異を加え、擢(ぬきん)でて諫議大夫に拝す。数々之を臥内に引き、訪うに政術を以てす。徴は雅(もと)より経国の才有り、性又た抗直にして、屈撓する所無し。太宗毎に之と言い、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦た知己の主に逢うを喜び、其の力用を竭くす。又た之を労いて曰く、「卿の諫むる所、前後二百余事、皆な朕が意に称(かな)う。卿の忠誠もて国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是くの若くならんや」と。三年、累遷して秘書監となり、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂いて曰く、「卿の罪は鉤に中(あ)つるより重く、我の卿に任ずるは管仲に逾(こ)ゆ。近代の君臣相い得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや」と。六年、太宗九成宮に幸し、近臣を宴す。長孫無忌曰く、「王珪・魏徴は、往(さき)に息隠に事う。臣之を見ること讎(あだ)の若し。謂わざりき、今者(いま)又た此の宴を同じくせんとは」と。太宗曰く、「魏徴は往者(さき)には実に我が讎とする所なり。但だ其の心を事うる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用う。何ぞ古烈に慚じんや。徴は毎に顔を犯して切諫し、我の非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり」と。徴再拝して曰く、「陛下、臣を導きて言わしむ。臣の敢えて言う所以なり。若し陛下臣の言を受けずんば、臣も亦た何ぞ敢えて龍鱗を犯し、忌諱に触れんや」と。太宗大いに悦び、各々銭十五万を賜う。七年、王珪に代わりて侍中と為り、累ねて鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職とする所を辞せんことを乞い、散官と為らんことを請う。太宗曰く、「朕は卿を讎虜の中より抜き、卿に任ずるに枢要の職を以てす。朕の非を見れば、未だ嘗て諫めずんばあらず。公独り見ずや、金の鉱に在るは、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛えて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕は方(まさ)に自ら金に比し、卿を以て良工と為す。疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾(しか)るを得んや」と。徴乃ち止む。後に復た固辞す。侍中を解くを聴(ゆる)し、授くるに特進を以てし、仍お門下省の事を知らしむ。十二年、太宗、皇孫の誕(う)まるるを以て、詔して公卿を宴す。帝極めて歓び、侍臣に謂いて曰く、「貞観以前、我に従いて天下を平定し、艱険に周旋するは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし、忠讜(ちゅうとう)を献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、惟だ魏徴のみ。古の名臣も、何を以て加えんや」と。是に於いて親ら佩刀を解きて以て二人に賜う。庶人承乾は春宮に在りて、徳業を修めず。魏王泰は寵愛日に隆く、内外の庶寮、咸な疑議有り。太宗聞きて之を悪(にく)み、侍臣に謂いて曰く、「当今の朝臣、忠謇(ちゅうけん)は魏徴に如くは無し。我遣わして皇太子に傅たらしめ、用て天下の望みを絶たん」と。十七年、遂に太子太師を授け、門下の事を知ること故の如し。徴自ら疾有るを陳ぶ。太宗謂いて曰く、「太子は宗社の本なり。須らく師傅有るべし。故に中正を選びて、以て輔弼と為す。公の疹病を知る。臥して之を護るべし」と。徴乃ち職に就く。尋いで疾に遇う。徴の宅内には先に正堂無し。太宗時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟(や)めて為に造らしめ、五日にして就る。中使を遣わして賜うに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親ら臨みて慟哭し、司空を贈り、謚して文貞と曰う。太宗親ら為に碑文を制し、復た自ら石に書す。特に其の家に食実封九百戸を賜う。太宗後に嘗て侍臣に謂いて曰く、「夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正すべし。古を以て鏡と為せば、以て興替を知るべし。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにすべし。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ。今、魏徴殂逝(そせい)し、遂に一鏡を亡えり」と。因りて泣下すること之を久しくす。乃ち詔して曰く、「昔惟だ魏徴のみ、毎に予が過ちを顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰わるる莫し。朕豈に独り往時に非有りて、皆な茲の日に是ならんや。故に亦た庶僚苟(いやしく)も順い、龍鱗に触れ難き者か。所以に己を虚しくして外に求め、迷いを披きて内に省みる。言いて用いざるは、朕の甘心する所なり。用いて言わざるは、誰の責ぞや。今より已後、各々乃(なんじ)の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠す無かれ」と。
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貞観政要・直諫貞観十年、越王は長孫皇后の生む所、太子の介弟なり。聡明絶倫にして、太宗は特に寵異する所なり。或るひと言う、三品以上は、皆な王を軽蔑すと。意は侍中魏徴等を譖(そし)るに在り。以て上の怒りを激す。上、斉政殿に御し、三品已上を引きて入坐せしめ定まる。大いに怒り、色を作して言いて曰く、「我に一言有り、公等に向かいて道わん。往前の天子は、即ち是れ天子なり。今時の天子は、天子に非ざるか。往年の天子の児は、是れ天子の児なり。今日の天子の児は、天子の児に非ざるか。我は隋家の諸王を見るに、達官已下、皆な其の躓頓(ちとん)を被るを免れず。我の児子は、自ら其の縦横を許さず。公等の容易に過ぐる所、相い共に軽蔑するを得たり。我若し之を縦(ゆる)さば、豈に能く公等を躓頓せしめざらんや」と。玄齢等戦慄し、皆な拝謝す。徴、正色して諫めて曰く、「当今の群臣、必ず越王を軽蔑する者無し。然れども礼に在りて、臣と子とは一例なり。『伝』に称す、王人は微なりと雖も、諸侯の上に列す、と。諸侯之を用いて公と為さば、即ち是れ公なり。之を用いて卿と為さば、即ち是れ卿なり。若し公卿と為さずんば、即ち諸侯に下士たり。今、三品已上は、列して公卿と為り、並びに天子の大臣なり。陛下の敬異を加うる所なり。縦い其れ小しく是ならざる有るも、越王何ぞ輒ち折辱を加うるを得んや。若し国家の紀綱廃壊せば、臣の知らざる所なり。当今聖明の時を以てすれば、越王豈に此くの如きを得んや。且つ隋の高祖は礼義を知らず、諸王を寵樹し、無礼を行わしむ。尋いで罪を以て黜(しりぞ)けらる。法と為すべからず。亦た何ぞ道うに足らんや」と。太宗其の言を聞き、喜び色に形(あら)わる。群臣に謂いて曰く、「凡そ人の言語、理到らば、伏せざるべからず。朕の言う所は、身に当たりての私愛なり。魏徴の論ずる所は、国家の大法なり。朕は郷(さき)に忿怒し、自ら理は疑わざるに在りと謂えり。魏徴の論ずる所を見るに及び、始めて大いに道理に非ざるを覚る。人君の言を為すこと、何ぞ容易なるべけんや」と。玄齢等を召して切に之を責め、徴に絹一千匹を賜う。
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貞観政要・直諫貞観六年、人有りて尚書右丞魏徴を告げ、其の親戚に阿党すと言う。太宗は御史大夫温彦博をして其の事を案験せしむ。乃ち言う者の不直なり。彦博奏して称す、徴は既に人の道(い)う所と為る。私無きに在りと雖も、亦た責むべき有り、と。遂に彦博をして徴に謂わしめて曰く、「爾は我を諫正すること数百条。豈に此の小事を以て、便ち衆美を損なわんや。今より已後、形跡を存せざるを得ず」と。数日を居(お)き、太宗徴に問いて曰く、「昨来、外に在りて、何の不是の事有るを聞くや」と。徴曰く、「前日、彦博をして勅を宣べて臣に語らしめて云う、『何に因りてか形跡を存せざる』と。此の言は大いに不是なり。臣聞く、君臣は気を同じくし、義は一体に均し、と。未だ公道を存せずして、惟だ形跡を事とするを聞かず。若し君臣上下、同じく此の路に遵(したが)わば、則ち邦国の興喪は、或いは未だ知るべからず」と。太宗矍然として容を改めて曰く、「前に此の語を発するも、尋いで已に之を悔ゆ。実に大いに不是なり。公も亦た遂に隠避を懐くを得ざれ」と。徴乃ち拝して言いて曰く、「臣は身を以て国に許す。直道にして行う。必ず敢えて欺負する所有らず。但だ願わくは陛下、臣をして良臣と為らしめよ。臣をして忠臣と為らしむる勿かれ」と。太宗曰く、「忠と良とに異なる有るか」と。徴曰く、「良臣は身をして美名を獲しめ、君は顕号を受く。子孫は世を伝え、福禄は疆り無し。忠臣は身は誅夷を受け、君は大悪に陥る。家と国と並びに喪び、独り其の名有るのみ。此を以て言えば、相い去ること遠し」と。太宗曰く、「君は但だ此の言に違う莫かれ。我は必ず社稷の計を忘れず」と。乃ち絹二百匹を賜う。
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貞観政要・悔過貞観中、太子承乾は多く法度を修めず。魏王泰は尤も才能を以て太宗の重んずる所と為る。特に詔して泰を武徳殿に移居せしむ。魏徴、疏を上りて諫めて曰く、「魏王は既に是れ陛下の愛子なり。須らく定分を知り、常に安全を保ち、事毎に其の驕奢を抑え、嫌疑の地に処らざらしむべし。今、此の殿に移居せしめ、東宮の西に在らしむ。海陵の昔居りし所なり。時の人は以て不可と為す。時は移り事は異なると雖も、猶お恐る、人の言多きを。又た王の本心も、亦た寧息せず。既に能く寵を以て懼れと為さば、伏して願わくは人の美を成せ」と。太宗曰く、「我は幾(ほとん)ど思量せず、甚だ大いなる錯誤なり」と。遂に泰を遣わして本第に帰らしむ。
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貞観政要・公平長楽公主は、文徳皇后の生む所なり。貞観六年、将に出降せんとす。所司に敕して資送すること長公主に倍せしむ。魏徴奏言す、「昔、漢の明帝は其の子を封ぜんと欲す。帝曰く、『朕の子は豈に先帝の子に同じきを得んや。楚・淮陽王に半ばすべし』と。前史は以て美談と為す。天子の姊妹を長公主と為し、天子の女を公主と為す。既に長の字を加うるは、良(まこと)に以て公主より尊きなり。情に殊なる有りと雖も、義に等別無し。若し公主の礼をして長公主に過ぐる有らしめば、理は恐らくは不可ならん。実に願わくは陛下、之を思え」と。太宗善しと称す。乃ち其の言を以て后に告ぐ。后嘆じて曰く、「嘗て陛下の魏徴を敬重するを聞くも、殊に未だ其の故を知らず。而して今、其の諫を聞くに、乃ち能く義を以て人王の情を制す。真に社稷の臣なり。妾は陛下と結髪して夫妻と為り、曲げて礼敬を蒙る。情義は深重なり。将に言有らんとする毎に、必ず顔色を俟つ。尚お敢えて軽々しく威厳を犯さず。況んや臣下に在りて、情は疎に礼は隔つるをや。故に韓非は之を説難と謂い、東方朔は其の易からざるを称す。良に以有るなり。忠言は耳に逆らえども行いに利あり。国有り家有る者、深く要急とする所なり。之を納るれば則ち世は治まり、之を杜(ふさ)げば則ち政は乱る。誠に願わくは陛下、之を詳らかにせば、則ち天下幸甚なり」と。因りて中使を遣わし、帛五百匹を賫(もたら)し、徴の宅に詣りて以て之を賜わんことを請う。
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