貞観政要 / 忠義
貞觀元年,太宗嘗從容言及隋亡之事,慨然嘆曰:「姚思廉不懼兵刃,以明大節,求諸古人,亦何以加也!」思廉時在洛陽,因寄物三百段,並遺其書曰:「想卿忠節之風,故有斯贈。」初,大業末,思廉為隋代王侑侍讀,及義旗克京城時,代王府僚多駭散,惟思廉侍王,不離其側。兵士將升殿,思廉厲聲謂曰:「唐公舉義兵,本匡王室,卿等不宜無禮於王!」眾服其言,於是稍卻,布列階下。須臾,高祖至,聞而義之,許其扶代王侑至順陽閤下,思廉泣拜而去。見者咸嘆曰:「忠烈之士,仁者有勇,此之謂乎!」
新字:貞観元年,太宗嘗従容言及隋亡之事,慨然嘆曰:「姚思廉不懼兵刃,以明大節,求諸古人,亦何以加也!」思廉時在洛陽,因寄物三百段,並遺其書曰:「想卿忠節之風,故有斯贈。」初,大業末,思廉為隋代王侑侍読,及義旗克京城時,代王府僚多駭散,惟思廉侍王,不離其側。兵士将升殿,思廉厲声謂曰:「唐公舉義兵,本匡王室,卿等不宜無礼於王!」衆服其言,於是稍却,布列階下。須臾,高祖至,聞而義之,許其扶代王侑至順陽閤下,思廉泣拝而去。見者咸嘆曰:「忠烈之士,仁者有勇,此之謂乎!」
書き下し
貞観元年、太宗嘗て従容として隋の亡ぶるの事に言い及ぶ。慨然として嘆じて曰く、「姚思廉は兵刃を懼れず、以て大節を明らかにす。諸を古人に求むるも、亦た何を以て加えんや」と。思廉は時に洛陽に在り。因りて物三百段を寄せ、並びに其の書を遺(おく)りて曰く、「卿が忠節の風を想う。故に斯の贈有り」と。初め、大業の末、思廉は隋の代王侑の侍読と為る。義旗の京城を克つ時に及び、代王府の僚は多く駭散す。惟だ思廉のみ王に侍り、其の側を離れず。兵士将に殿に升らんとす。思廉、厲声して謂いて曰く、「唐公は義兵を挙ぐ。本と王室を匡さんとす。卿等宜しく王に無礼なるべからず」と。衆は其の言に服し、是に於て稍(やや)却き、階下に布列す。須臾にして、高祖至る。聞きて之を義とし、其の代王侑を扶けて順陽閤下に至らしむるを許す。思廉泣き拝して去る。見る者咸な嘆じて曰く、「忠烈の士、仁者に勇有りとは、此の謂いか」と。
現代語訳
貞観元年、太宗はある時ゆったりと語らううちに、隋の滅亡の話に及んだ。感慨深く嘆じて言った。「姚思廉は刃を恐れず、大いなる節義を明らかにした。古人に求めても、これに勝る者はない」。姚思廉は当時、洛陽にいた。そこで絹三百段を贈り、書を添えて言った。「あなたの忠節の風格を思う。だからこの贈り物をする」。かつて、大業の末年、姚思廉は隋の代王楊侑の侍読だった。義兵が長安を攻め落とした時、代王府の官僚は多くが驚いて散った。ただ姚思廉だけが王のそばを離れなかった。兵士が殿上に上がろうとした。姚思廉は声を張り上げて言った。「唐公は義兵を挙げ、もとは王室を正すためです。あなたがたは王に無礼を働いてはならない」。人々はその言葉に服し、やや後ずさりして、階段の下に並んだ。まもなく高祖が到着した。これを聞いて義とし、姚思廉が代王楊侑を扶けて順陽閤まで送ることを許した。姚思廉は泣いて拝礼し、去った。見る者はみな嘆じて言った。「忠烈の士、仁者に勇あり、とはこのことか」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『晏子春秋』外篇上・有獻書譖晏子退耕而國不治復召晏子晏子景公に相たり。其の人を論ずるや、賢を見ては之を進め、君の欲する所に同じからず。不善を見ては則ち廃し、君の愛する所を辟けず。己を行いて私無く、直言して諱む無し。書を納むる者有りて、曰く、「廃置君前に周からざる、之を専と謂い、言を出して君前に諱まざる、之を易と謂う。専易の行い存すれば、則ち君臣の道廃す。吾晏子の忠臣為るを知らず」と。公以て然りと為す。晏子朝に入るに、公の色説ばず。故に晏子帰り、載を備え、人をして辞せしめて曰く、「嬰は故より老悖にして能無し。敢えて壮者の事に服する毋し」と。辞して臣たらず、退きて窮処し、東のかた海浜に耕し、堂下に藜藿生じ、門外に荊棘生ず。七年、燕・魯分争し、百姓惛乱して、家に積む無し。公自ら国を治め、権は諸侯に軽く、身は高・国に弱し。公恐れ、復た晏子を召す。晏子至るに、公は一たび七年の禄を帰し、而して家に蔵する無し。晏子立つに、諸侯其の威を忌み、高・国其の政に服し、燕・魯職を貢し、小国時に朝す。晏子没して後に衰う。
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史記 袁盎鼂錯列伝然れども袁盎も亦数(しばしば)直諫するを以て、久しく中に居るを得ず、調されて隴西の都尉と為る。士卒を仁愛し、士卒皆争ひて為に死す。遷りて斉の相と為る。徙りて呉の相と為る。辞して行くに、種盎に謂ひて曰く、「呉王驕ること日久しく、国に姦多し。今苟も劾治せんと欲せば、彼上書して君を告げずんば、即ち利剣もて君を刺さん。南方は卑湿なり、君能く日に飲み、何もする毋く、時に王に説きて反する毋かれと曰ふのみ。此の如くせば幸ひに脱るるを得ん」と。盎種の計を用ひ、呉王厚く盎を遇す。盎告帰し、道に丞相申屠嘉に逢ひ、車を下りて拝謁す。丞相車上より袁盎に謝す。袁盎還りて、其の吏に愧ぢ、乃ち丞相の舎に之きて上謁し、丞相に見えんことを求む。丞相良久しくして之を見る。盎因りて跪きて曰く、「願はくは閒を請はん」と。丞相曰く、「使君の言ふ所公事ならば、曹に之きて長史掾と議せよ、吾且に之を奏せんとす。即し私ならば、吾私語を受けず」と。袁盎即ち跪きて説きて曰く、「君丞相と為り、自ら度るに陳平・絳侯と孰れぞ」と。丞相曰く、「吾如かず」と。袁盎曰く、「善し、君即ち自ら如かずと謂ふ。夫れ陳平・絳侯は高帝を輔翼して天下を定め、将相と為りて、諸呂を誅し、劉氏を存す。君は乃ち材官蹶張(けっちょう)為りて、遷りて隊率と為り、功を積みて淮陽の守に至る。奇計攻城野戦の功有るに非ず。且つ陛下代より来たり、朝する毎に、郎官書疏を上れば、未だ嘗て輦を止めて其の言を受けずんばあらず。言用ふべからざれば之を置き、言受くべければ之を採り、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。何ぞや。則ち以て天下の賢士大夫を致さんと欲すればなり。上は日に聞かざる所を聞き、知らざる所を明らかにし、日に益ます聖智なり。君今自ら天下の口を閉鉗して日に益ます愚なり。夫れ聖主を以て愚相を責む、君禍を受くること久しからず」と。丞相乃ち再拝して曰く、「嘉は鄙野の人、乃ち知らず、将軍幸ひに教へよ」と。引き入れて与に坐し、上客と為す。
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『酔古堂剣掃』集峭・腸を翻し肚を倒にす口に隨ひ牙を利くし、天荒れ地老ゆるを顧みず;腸を翻し肚を倒にし、那ぞ鬼哭し神愁ふるを管せん。
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、昔し国王あり、国を治て後ちに諸の臣下に問ふ、我好く国を治む、よく賢なりやと、諸臣みな云く、帝甚だよく治む、太だ賢なりと、時に一臣ありて云く、帝は賢ならずと、帝の云く故は如何、臣が云く、国を治て後ち、帝の弟に与へずして息に与ふと、帝の心にかなはずして、追ひ立られて後、亦一臣に問ふ、朕よく仁なりや、臣が云く、甚だ仁なり、帝の云く、其の故いかん、臣が云く、仁君には必ず忠臣あり、忠臣は直言あるなり、前きの臣太だ直言なり、是れ忠臣なり、仁君にあらずんば得じと、帝是を感じて、即ち前きの臣をめしかへさるゝなり、
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史記 汲鄭列伝黯人と為り性倨にして、礼少なく、面折し、人の過ちを容るること能はず。己に合ふ者は善く之を待ち、己に合はざる者は見るに忍ぶこと能はず、士も亦此を以て附かず。然れども学を好み、游侠し、気節に任じ、内行修絜にして、直諫を好み、数々主の顔色を犯し、常に傅柏・袁盎の人と為りを慕ふなり。灌夫・鄭当時及び宗正劉棄に善し。亦数々直諫するを以て、久しく位に居るを得ず。是の時に当たり、太后の弟武安侯蚡丞相為り、中二千石来たりて拝謁するに、蚡礼を為さず。然れども黯蚡に見ゆるに未だ嘗て拝せず、常に之に揖す。天子方に文学儒者を招く、上曰く吾云云せんと欲すと、黯対へて曰く、「陛下内に欲多くして外に仁義を施す、柰何ぞ唐虞の治に效はんと欲するや」と。上黙然として、怒り、色を変じて朝を罷む。公卿皆黯の為に懼る。上退き、左右に謂ひて曰く、「甚しいかな、汲黯の戇なるや」と。群臣或いは黯を数む、黯曰く、「天子公卿輔弼の臣を置くは、寧ろ従諛承意して、主を不義に陥れしめんや。且つ已に其の位に在り、縦ひ身を愛すとも、朝廷を辱むることを柰何せん」と。黯病多く、病且に三月に満たんとし、上常に告を賜ふこと数々なるも、終に愈えず。最後に病む、荘助為に告を請ふ。
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『春秋左氏伝』昭公八年 陳の滅亡冬、十一月、壬午、陳を滅ぼす。輿嬖袁克、馬を殺し玉を毀ちて以って葬る。楚人將に之を殺さんとす。之を寘かんことを請ふ。既にして又私せんことを請ふ。幄に私し、絰を顙に加へて逃る。穿封戌をして陳公為らしめて曰く、「城麇の役に諂はず」と。王に侍して酒を飲む。王曰く、「城麇の役、女寡人の此に及ぶを知らば、女其れ寡人を辟けんか」と。對へて曰く、「若し君の此に及ぶを知らば、臣必ず死を致して禮もて以って楚を息めん」と。晉侯史趙に問ひて曰く、「陳其れ遂に亡びんか」と。對へて曰く、「未だし」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「陳は顓頊の族なり。歲鶉火に在りて、是を以って卒に滅ぶ。陳も將に之の如くならん。今析木の津に在り、猶ほ將に復た由らんとす。且つ陳氏齊に政を得て、而る後に陳卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふ無し。舜之に重ぬるに明德を以ってし、德を遂に寘く。遂世々之を守る。胡公の淫せざるに及び、故に周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。臣聞く、盛德は必ず百世祀らる、と。虞の世數未だし。繼ぎて守るは將に齊に在らんとす。其の兆既に存せり」と。
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