貞観政要 / 教戒太子諸王
貞觀十一年,太宗謂吳王恪曰:「父之愛子,人之常情,非待教訓而知也。子能忠孝則善矣!若不遵誨誘,忘棄禮法,必自致刑戮,父雖愛之,將如之何?昔漢武帝既崩,昭帝嗣立,燕王旦素驕縱,诪張不服,霍光遣一折簡誅之,則身死國除。夫為臣子不得不慎。」
新字:貞観十一年,太宗謂呉王恪曰:「父之愛子,人之常情,非待教訓而知也。子能忠孝則善矣!若不遵誨誘,忘棄礼法,必自致刑戮,父雖愛之,将如之何?昔漢武帝既崩,昭帝嗣立,燕王旦素驕縦,诪張不服,霍光遣一折簡誅之,則身死国除。夫為臣子不得不慎。」
書き下し
貞観十一年、太宗呉王恪に謂いて曰く、「父の子を愛するは、人の常情なり。教訓を待ちて知るに非ざるなり。子能く忠孝ならば則ち善し。若し誨誘に遵わず、礼法を忘れ棄てば、必ず自ら刑戮を致す。父は之を愛すと雖も、将た之を如何せん。昔、漢の武帝既に崩じ、昭帝嗣ぎ立つ。燕王旦は素より驕縦にして、诪張(ちゅうちょう)して服せず。霍光は一折簡を遣わして之を誅す。則ち身は死し国は除かる。夫れ臣子と為らば、慎まざるを得ず」と。
現代語訳
貞観十一年、太宗が呉王李恪に言った。「父が子を愛するのは、人の常の情だ。教えられて知ることではない。子が忠孝であれば善い。もし教えに従わず、礼と法を忘れ捨てれば、必ず自ら刑罰を招く。父が愛していても、どうしようもない。昔、漢の武帝が崩じ、昭帝が跡を継いだ。燕王旦はもともと驕り高ぶり、勝手に振る舞って服さなかった。霍光が一枚の書簡を送って誅した。身は死に、国は除かれた。臣下や子となる者は、慎まないわけにいかない」。
解説
貞観十一年、太宗が呉王李恪に語った言葉です。「父が子を可愛がるのは、人として当たり前の情であって、教えられて分かることではない。子が忠孝を尽くせばそれでよい。しかし教えに従わず、礼儀や決まりを忘れて捨ててしまえば、必ず自分で罰を招くことになる。父がどれほど愛していても、どうしてやることもできない」。そのあとに太宗は、漢の燕王旦の例を挙げます。皇帝の兄という立場でありながら、勝手気ままに振る舞って従わなかったため、たった一枚の書状で処刑され、国も取り上げられました。血のつながりや親の愛情は、いざという時に本人を守ってはくれない、という厳しい現実です。「愛しているからこそ、慎みなさい」という言葉には、甘やかすことと愛することは違う、という意味が込められています。今の子育てや家族の間でも、可愛いからと何でも許してしまうと、かえってその人のためにならないことがあります。本当に大事に思うなら、時には厳しく言うことも必要なのです。
この章句が説くこと
父雖愛之将如之何燕王旦の一折簡愛と甘やかしは別事業承継
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