貞観政要 / 太子諸王定分
貞觀十一年,侍御史馬周上疏曰:「漢、晉以來,諸王皆為樹置失宜,不預立定分,以至於滅亡。人主熟知其然,但溺於私愛,故前車既覆而後車不改轍也。今諸王承寵遇之恩有過厚者,臣之愚慮,不惟慮其恃恩驕矜也。昔魏武帝寵樹陳思,及文帝即位,防守禁閉,有同獄囚,以先帝加恩太多,故嗣王從而畏之也。此則武帝之寵陳思,適所以苦之也。且帝子何患不富貴,身食大國,封戶不少,好衣美食之外,更何所須?而每年別加優賜,會無紀極。俚語曰:『貧不學儉,富不學奢。』言自然也。今陛下以大聖創業,豈惟處置見在子弟而已,當須制長久之法,使萬代遵行。」疏奏,太宗甚嘉之,賜物百段。
新字:貞観十一年,侍御史馬周上疏曰:「漢、晋以来,諸王皆為樹置失宜,不預立定分,以至於滅亡。人主熟知其然,但溺於私愛,故前車既覆而後車不改轍也。今諸王承寵遇之恩有過厚者,臣之愚慮,不惟慮其恃恩驕矜也。昔魏武帝寵樹陳思,及文帝即位,防守禁閉,有同獄囚,以先帝加恩太多,故嗣王従而畏之也。此則武帝之寵陳思,適所以苦之也。且帝子何患不富貴,身食大国,封戸不少,好衣美食之外,更何所須?而毎年別加優賜,会無紀極。俚語曰:『貧不学倹,富不学奢。』言自然也。今陛下以大聖創業,豈惟処置見在子弟而已,当須制長久之法,使万代遵行。」疏奏,太宗甚嘉之,賜物百段。
書き下し
貞観十一年、侍御史馬周疏を上りて曰く、「漢・晋より以来、諸王は皆な樹置の宜しきを失い、預め定分を立てざるが為に、以て滅亡に至る。人主は熟(つらつ)ら其の然るを知るも、但だ私愛に溺る。故に前車既に覆るも、後車は轍を改めざるなり。今、諸王の寵遇の恩を承くること、厚きに過ぐる者有り。臣の愚慮は、惟だ其の恩を恃みて驕矜するを慮るのみに非ず。昔、魏の武帝は陳思を寵樹す。文帝の即位するに及び、防守禁閉して、獄囚に同じきこと有り。先帝の恩を加うること太(はなは)だ多きを以て、故に嗣王は従いて之を畏るるなり。此れ則ち武帝の陳思を寵するは、適(まさ)に之を苦しむる所以なり。且つ帝子は何ぞ富貴ならざるを患えんや。身は大国を食(は)み、封戸は少なからず。好衣美食の外、更に何の須(もと)むる所ぞ。而るに毎年別に優賜を加え、会(かつ)て紀極無し。俚語に曰く、『貧は倹を学ばず、富は奢を学ばず』と。自然なるを言うなり。今、陛下は大聖を以て業を創む。豈に惟だ見在の子弟を処置するのみならんや。当に須らく長久の法を制し、万代をして遵行せしむべし」と。疏奏す。太宗甚だ之を嘉し、物百段を賜う。
現代語訳
貞観十一年、侍御史の馬周が上奏文を奉って言った。「漢や晋以来、諸王はみな配置の適切さを失い、あらかじめ分限を定めなかったために、滅亡に至りました。君主はよくよくそうと知りながら、私的な愛情に溺れます。だから前の車が覆っても、後の車は轍を変えないのです。今、諸王が受けている寵愛の恩には、厚すぎるものがあります。臣の愚かな心配は、彼らが恩を恃んで驕ることだけではありません。昔、魏の武帝は曹植を可愛がりました。文帝が即位すると、監視して閉じ込め、囚人と変わらぬ扱いをしました。先帝の恩があまりに多かったから、後継ぎの王がそれを恐れたのです。武帝が曹植を寵愛したことは、まさに彼を苦しめる原因となりました。それに帝の子が、富貴でないことを心配するでしょうか。大きな国を領し、封戸も少なくない。良い衣と美食のほかに、何を求めるのでしょう。それなのに毎年、別に恩賜が加えられ、際限がありません。俗諺に『貧しい者は倹約を学ばず、富める者は奢りを学ばない』とあります。自然にそうなるということです。今、陛下は大いなる聖として業を創められた。ただ今いる子弟を処置するだけでなく、長く続く法を定め、万代にわたって守らせるべきです」。上奏があった。太宗は大いによしとし、絹百段を賜った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 五帝本紀堯子丹朱の不肖にして、天下を授くるに足らざるを知る。是に於て乃ち権りて舜に授く。舜に授くれば、則ち天下其の利を得て丹朱病む。丹朱に授くれば、則ち天下病みて丹朱其の利を得。堯曰く、「終に天下の病を以て一人を利せず」と。而して卒に舜に授くるに天下を以てす。堯崩じ、三年の喪畢はり、舜丹朱に譲りて南河の南に辟く。諸侯の朝覲する者は丹朱に之かずして舜に之き、獄訟する者は丹朱に之かずして舜に之き、謳歌する者は丹朱を謳歌せずして舜を謳歌す。舜曰く、「天なるかな」と。而る後に中国に之きて天子の位を践む。是を帝舜と為す。虞舜は、名を重華と曰ふ。重華の父を瞽叟と曰ひ、瞽叟の父を橋牛と曰ひ、橋牛の父を句望と曰ひ、句望の父を敬康と曰ひ、敬康の父を窮蟬と曰ひ、窮蟬の父を帝顓頊と曰ひ、顓頊の父を昌意と曰ふ。以て舜に至るまで七世なり。窮蟬より以て帝舜に至るまで、皆微にして庶人為り。舜の父瞽叟は盲にして、舜の母死し、瞽叟更に妻を娶りて象を生む。象は傲なり。瞽叟後妻の子を愛し、常に舜を殺さんと欲す。舜避け逃る。小過有るに及べば、則ち罪を受く。父及び後母と弟とに順事し、日に以て篤謹にして、懈ること有る匪し。舜は、冀州の人なり。舜歴山に耕し、雷沢に漁し、河浜に陶し、什器を寿丘に作り、時に負夏に就く。舜の父瞽叟は頑、母は嚚、弟象は傲にして、皆舜を殺さんと欲す。舜順適して子の道を失はず、兄弟に孝慈なり。殺さんと欲するも、得可からず。即ち求むれば、嘗に側に在り。舜年二十にして孝を以て聞こゆ。三十にして帝堯用ゐる可き者を問ふに、四嶽咸虞舜を薦めて、可なりと曰ふ。
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史記 蕭相国世家何頓首して曰く、「帝之を得たり。臣死すとも恨みず」と。何田宅を置くに必ず窮処に居り、家を為るに垣屋を治めず。曰く、「後世賢ならば、吾が倹を師とせよ。賢ならずんば、勢家の奪ふ所と為ること毋からん」と。孝恵二年、相国何卒し、謚して文終侯と為す。後嗣罪を以て侯を失ふ者四世、絶ゆ、天子輒ち複た何の後を求め、封じて酇侯を続がしむ、功臣之に比するを得る莫し。
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『春秋左氏伝』昭公七年 其の父薪を析く晉侯間有り。子產に莒の二方鼎を賜ふ。子產豐施の為に州田を韓宣子に歸して曰く、「日(さき)に君夫の公孫段を以て、能く其の事に任ふと為して、之に州田を賜ふ。今祿無くして早世し、久しく君の德を享くるを獲ず。其の子敢へて有たず、敢へて以て君に聞せず、私かに諸を子に致す」と。宣子辭す。子產曰く、「古人言有りて曰く、『其の父薪を析くも、其の子負荷する克はず』と。施將に其の先人の祿に任ふる能はざるを懼る。其れ況んや能く大國の賜に任へんや。縱ひ吾子政を為して可なりとも、後の人若し屬(たまたま)疆埸の言有らば、敝邑戾を獲て、豐氏其の大討を受けん。吾子州を取らば、是れ敝邑を戾より免れしめて、豐氏を建置するなり。敢へて以て請ふと為す」と。宣子之を受け、以て晉侯に告ぐ。晉侯以て宣子に與ふ。宣子初言の為に、之を有つを病み、以て原縣を樂大心に易ふ。
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