貞観政要 / 封建
貞觀元年,封中書令房玄齡為邗國公,兵部尚書杜如晦為蔡國公,吏部尚書長孫無忌為齊國公,並為第一等,食邑實封一千三百戶。皇從父淮安王神通上言:「義旗初起,臣率兵先至,今玄齡等刀筆之人,功居第一,臣竊不服。」太宗曰:「國家大事,惟賞與罰。賞當其勞,無功者自退。罰當其罪,為惡者咸懼。則知賞罰不可輕行也。今計勛行賞,玄齡等有籌謀帷幄,畫定社稷之功,所以漢之蕭何,雖無汗馬,指蹤推轂,故得功居第一。叔父於國至親,誠無愛惜,但以不可緣私濫與勛臣同賞矣!」由是諸功臣自相謂曰:「陛下以至公,賞不私其親,吾屬何可妄訴。」初,高祖舉宗正籍,弟侄、再從、三從孩童已上封王者數十人。至是,太宗謂群臣曰:「自兩漢已降,惟封子及兄弟,其疏遠者,非有大功,如漢之賈、澤,並不得受封。若一切封王,多給力役,乃至勞苦萬姓,以養已之親屬。」於是宗室先封郡王其間無功者,皆降為縣公。
新字:貞観元年,封中書令房玄齢為邗国公,兵部尚書杜如晦為蔡国公,吏部尚書長孫無忌為斉国公,並為第一等,食邑実封一千三百戸。皇従父淮安王神通上言:「義旗初起,臣率兵先至,今玄齢等刀筆之人,功居第一,臣窃不服。」太宗曰:「国家大事,惟賞与罰。賞当其労,無功者自退。罰当其罪,為悪者咸懼。則知賞罰不可軽行也。今計勛行賞,玄齢等有籌謀帷幄,画定社稷之功,所以漢之蕭何,雖無汗馬,指蹤推轂,故得功居第一。叔父於国至親,誠無愛惜,但以不可縁私濫与勛臣同賞矣!」由是諸功臣自相謂曰:「陛下以至公,賞不私其親,吾属何可妄訴。」初,高祖舉宗正籍,弟侄、再従、三従孩童已上封王者数十人。至是,太宗謂群臣曰:「自両漢已降,惟封子及兄弟,其疏遠者,非有大功,如漢之賈、沢,並不得受封。若一切封王,多給力役,乃至労苦万姓,以養已之親属。」於是宗室先封郡王其間無功者,皆降為県公。
書き下し
貞観元年、中書令房玄齢を封じて邗国公と為し、兵部尚書杜如晦を蔡国公と為し、吏部尚書長孫無忌を斉国公と為す。並びに第一等と為し、食邑実封千三百戸。皇の従父淮安王神通、上言す、「義旗初めて起こるや、臣は兵を率いて先に至る。今、玄齢等は刀筆の人なり。功は第一に居る。臣窃かに服せず」と。太宗曰く、「国家の大事は、惟だ賞と罰なり。賞は其の労に当たれば、無功なる者は自ら退く。罰は其の罪に当たれば、悪を為す者は咸な懼る。則ち知る、賞罰は軽々しく行うべからざるを。今、勲を計り賞を行うに、玄齢等には帷幄に籌謀し、社稷を画定するの功有り。漢の蕭何の、汗馬無しと雖も、蹤を指し轂を推すに、故に功は第一に居るを得たる所以なり。叔父は国に於て至親なり。誠に愛惜する無し。但だ私に縁りて濫りに勲臣と賞を同じくすべからざるを以てなり」と。是に由りて諸々の功臣は自ら相い謂いて曰く、「陛下は至公を以てし、賞は其の親を私せず。吾が属は何ぞ妄りに訴うべけんや」と。初め、高祖は宗正の籍を挙げ、弟姪・再従・三従の孩童已上、王に封ぜらるる者数十人。是に至り、太宗群臣に謂いて曰く、「両漢より已降、惟だ子及び兄弟を封ず。其の疎遠なる者は、大功有るに非ざれば、漢の賈・沢の如きは、並びに封を受くるを得ず。若し一切王に封じ、多く力役を給せば、乃ち万姓を労苦せしめ、以て己の親属を養うに至る」と。是に於て宗室の先に郡王に封ぜられ、其の間に功無き者は、皆な降して県公と為す。
現代語訳
貞観元年、中書令の房玄齢を邗国公、兵部尚書の杜如晦を蔡国公、吏部尚書の長孫無忌を斉国公に封じた。みな第一等とし、食邑は千三百戸。皇帝の叔父である淮安王李神通が申し上げた。「義兵が初めて起こった時、臣は兵を率いて真っ先に駆けつけました。今、玄齢らは筆を執る人間です。それが功の第一に置かれている。臣はひそかに納得できません」。太宗は言った。「国家の大事は、ただ賞と罰である。賞がその功労にふさわしければ、功のない者は自ずと退く。罰がその罪にふさわしければ、悪をなす者はみな恐れる。だから賞罰は軽々しく行ってはならないと分かる。今、功を計って賞を行うに、玄齢らには本陣で策を練り、国家の基を定めた功がある。漢の蕭何が、戦場を駆けた功はなくとも、方向を指し示し車を押したがゆえに、功の第一に置かれたのと同じだ。叔父は国にとって最も近い親族であり、まことに惜しむ気持ちはない。ただ私情によって、みだりに功臣と同じ賞を与えるわけにはいかないのだ」。これによって功臣たちは互いに言い合った。「陛下は公正であり、賞において親族をえこひいきされない。我々がどうしてみだりに訴えられよう」。当初、高祖は皇族の名簿を挙げ、弟や甥、再従兄弟や三従兄弟の子どもに至るまで、王に封じた者が数十人いた。ここに至って、太宗は群臣に言った。「漢の時代以降、王に封じられたのは子と兄弟だけだ。疎遠な者は、大功がなければ、漢の劉賈や劉沢のような例を除き、封を受けられなかった。もしすべてを王に封じ、多くの人夫を与えれば、民を苦しめて、自分の親族を養うことになる」。そこで皇族で先に郡王に封じられていた者のうち、功のない者は、みな県公に降格した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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貞観政要・封建貞観十一年、太宗、周は子弟を封じて八百余年、秦は諸侯を罷めて二世にして滅び、呂后は劉氏を危うくせんと欲するも、終に宗室に頼りて安きを獲たるを以て、親賢を封建するは、当に是れ子孫長久の道なるべしとす。乃ち制を定む。子弟の荊州都督荊王元景、安州都督呉王恪等二十一人、又た功臣の司空趙州刺史長孫無忌、尚書左僕射宋州刺史房玄齢等十四人を以て、並びに世襲の刺史と為す。礼部侍郎李百薬、奏して世封の事を論駁して曰く、
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貞観政要・教戒太子諸王観るに夫れ期に膺(あた)り命を受け、図を握りて宇を御し、咸な懿親を建て、王室を藩屏す。方策に布在す。得て言うべし。軒より二十五子を分かち、舜は一十六族を挙ぐるより、爰(ここ)に周・漢を歴、以て陳・隋に逮(およ)ぶまで、山河を分裂し、大いに磐石を啓く者は衆し。或いは王家を保乂(ほうがい)し、時と升降す。或いは其の土宇を失い、祀られずして忽ち諸(こ)れ亡ぶ。然れども其の隆替を考え、其の興滅を察するに、功成り名立つは、咸な始封の君に資(と)る。国喪び身亡ぶは、多く継体の後に因る。其の故は何ぞや。始封の君は、時に草昧に逢い、王業の艱阻を見、父兄の憂勤を知る。是を以て上に在りて驕らず、夙夜に懈らず。或いは醴を設けて以て賢を求め、或いは飱を吐きて以て士に接す。故に忠言の耳に逆らうを甘しとし、百姓の懽心を得たり。至徳を生前に樹て、遺愛を身後に流す。夫の子孫の体を継ぐに暨(およ)びては、多く隆平に属す。深宮の中に生まれ、婦人の手に長ず。高危を以て憂懼と為さず。豈に稼穡の艱難を知らんや。小人に昵近し、君子を疎遠にす。哲婦に綢繆(ちゅうびゅう)し、明徳に傲狠す。義を犯し礼に悖り、淫荒にして度無し。典憲に遵わず、僣差して等を越ゆ。一顧の権寵を恃み、便ち匹嫡の心を懐く。一事の微労を矜り、遂に無厭の望有り。忠貞の正路を棄て、奸宄(かんき)の迷塗を蹈む。諫に愎(もと)り卜に違い、往きて返らず。梁孝・斉冏の勲庸、淮南・東阿の才俊と雖も、霄を摩するの逸翮を摧(くだ)き、窮轍の涸鱗と成る。桓・文の大功を棄て、梁・董の顕戮に就く。垂れて炯戒と為す。惜しむべからずや。皇帝は聖哲の資を以て、傾危の運を拯(すく)い、七徳を耀かして以て六合を清くし、万国を総べて百霊を朝せしむ。四荒を懐柔し、九族を親睦す。華萼を『棠棣』に念い、維城を宗子に寄す。心に愛するかな、日として思わざる無し。爰に下臣に命じて、載籍を考覧し、博く鑒鏡を求め、厥の孫謀を貽(のこ)さしむ。臣輒(すなわ)ち愚誠を竭くし、諸を前訓に稽(かんが)う。凡そ藩と為り翰と為り、国有り家有る者、其の興るや必ず善を積むに由る。其の亡ぶるや皆な悪を積むに在り。故に知る、善は積まずんば以て名を成すに足らず、悪は積まずんば以て身を滅ぼすに足らざるを。然らば則ち禍福に門無く、吉凶は己に由る。惟だ人の召く所なり。豈に徒言ならんや。今、古よりの諸王の行事の得失を録し、其の善悪を分かちて各々一篇と為し、名づけて曰く、『諸王善悪録』と。善を見ては斉しからんことを思い、以て名を揚げて朽ちざるに足らしめ、悪を聞きては能く改め、庶(ちか)くは大過を免るるを得しめんと欲す。善に従わば則ち誉有り、過ちを改むれば則ち咎無し。興亡は是れ係る。勉めざるべけんや。
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貞観政要・封建伏して詔書を見るに、宗室勲賢をして藩部に鎮を作(な)し、厥(そ)の子孫に貽(のこ)し、嗣ぎて其の政を守らしむ。大故有るに非ずんば、黜免する或(こと)無し、と。臣窃かに惟うに、陛下の之を封植するは、誠に之を愛し之を重んじ、其の緒裔をして承け守り、国と疆り無からしめんと欲すればなり。可(しか)らんか。堯・舜の父を以てすら、猶お朱・均の子有り。況んや此より下(くだ)りて還(かえ)って、父を以て児を取らんと欲するは、恐らくは之を失うこと遠からん。儻(も)し孩童の職を嗣ぐ有りて、万一驕逸ならば、則ち兆庶は其の殃を被り、而して国家は其の敗を受く。政(まさ)に之を絶たんと欲すれば、則ち子文の理は猶お在り。政に之を留めんと欲すれば、而して欒黶(らんえん)の悪は已に彰る。其の見存の百姓に毒害あらんよりは、則ち寧ろ已亡の一臣に恩を割かしむること、明らかなり。然らば則ち郷(さき)の所謂る之を愛する者は、乃ち適(まさ)に之を傷つくる所以なり。臣謂えらく、宜しく賦するに茅土を以てし、其の戸邑を疇(むく)い、必ず材行有らば、器に随いて方(まさ)に授くべし。則ち翰翮(かんかく)強からずとも、亦た以て尤累を免るるを獲べし。昔、漢の光武は功臣に吏事を任ぜず。終に其の世を全うする所以の者は、良に其の術を得たるに由るなり。願わくは陛下、深く其の宜しきを思い、夫れをして大恩を奉ずるを得しめ、而して子孫は其の福禄を終えしめよ。
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貞観政要・公平太宗初めて即位す。中書令房玄齢奏言す、「秦府の旧左右にして未だ官を得ざる者は、並びに前宮及び斉府の左右の処分の己に先んずるを怨む」と。太宗曰く、「古に至公と称するは、蓋し平恕にして私無きを謂う。丹朱・商均は、子なり。而れども堯・舜は之を廃す。管叔・蔡叔は、兄弟なり。而れども周公は之を誅す。故に知る、人に君たる者は、天下を以て公と為し、物に私する無きを。昔、諸葛孔明は、小国の相なり。猶お曰く、『吾が心は称(はかり)の如し。人の為に軽重を作す能わず』と。況んや我は今、大国を理むるをや。朕と公等の衣食は百姓より出づ。此れ則ち人力は已に上に奉ず。而るに上の恩は未だ下に被らず。今、賢才を択ぶ所以の者は、蓋し百姓を安んずるを求むるが為なり。人を用うるは但だ堪うるや否やを問う。豈に新故を以て情を異にせんや。凡そ一面すら尚お且つ相い親しむ。況んや旧人にして頓(にわ)かに忘れんや。才若し堪えずんば、亦た豈に旧人なるを以て先んじて用いんや。今、其の能不能を論ぜずして、直だ其の嗟怨を言うは、豈に是れ至公の道ならんや」と。
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貞観政要・任賢房玄齢は、斉州臨淄(りんし)の人なり。初め隋に仕え、隰城(しゅうじょう)の尉と為る。事に坐し、名を除かれて上郡に徙(うつ)さる。太宗地を渭北に徇(とな)うるや、玄齢は策を杖つきて軍門に謁す。太宗一たび見て、便ち旧識の如く、渭北道行軍記室参軍に署す。玄齢既に知己に遇い、遂に心力を罄竭(けいけつ)す。是の時、賊寇平らぐ毎に、衆人は競いて金宝を求む。玄齢独り先ず人物を収め、之を幕府に致す。謀臣猛将有るに及びては、之と潜かに相申結し、各々死力を致さしむ。累ねて秦王府記室、兼ねて陝東道大行台考功郎中を授かる。玄齢は秦府に在ること十余年、恒に管記を典(つかさど)る。隠太子・巣刺王は、玄齢及び杜如晦の太宗の親礼する所と為るを以て、甚だ之を悪み、之を高祖に譖(そし)る。是に由りて如晦と並びに駆斥(くせき)に遭う。隠太子将に変有らんとするに及び、太宗は玄齢・如晦を召し、道士の服を衣(き)しめ、潜かに引きて閤に入れて謀議す。事平らぐに及び、太宗春宮に入り、擢(ぬ)きて太子左庶子に拝す。貞観元年、中書令に遷る。三年、尚書左僕射に拝せられ、国史を監修し、梁国公に封ぜられ、実封一千三百戸。既に百司を総任し、虔恭(けんきょう)夙夜、心を尽くし節を竭くし、一物も所を失うを欲せず。人に善有るを聞けば、己に之れ有るが若し。吏事に明達にして、飾るに文学を以てす。法令を審定し、意は寛平に在り。備わるを求むるを以て人を取らず、己の長を以て物を格(ただ)さず。能に随いて収叙し、疎賎を隔つる無し。論者称して良相と為す。十三年、太子少師を加う。玄齢自ら一たび端揆(たんき)に居ること十有五年なるを以て、頻りに表を抗して位を辞す。優詔もて許さず。十六年、進みて司空に拝せられ、仍お朝政を総べ、旧に依りて国史を監修す。玄齢復た年老いたるを以て致仕を請う。太宗使いを遣わして謂いて曰く、「国家久しく相として任使す。一朝にして忽ち良相無くんば、両手を失うが如し。公若し筋力衰えずんば、此の譲を煩わす無かれ。自ら衰謝を知らば、当に更に奏聞すべし」と。玄齢遂に止む。太宗又た嘗て王業の艱難、佐命の匡弼(きょうひつ)を追思し、乃ち《威鳳賦》を作りて以て自ら喩え、因りて玄齢に賜う。其の称せらるること類(おおむ)ね此くの如し。
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