貞観政要 / 直諫
貞觀二年,隋通事舍人鄭仁基女年十六七,容色絕姝,當時莫及。文德皇后訪求得之,請備嬪御。太宗乃聘為充華。詔書已出,策使未發。魏徵聞其已許嫁陸氏,方遽進而言曰:「陛下為人父母,撫愛百姓,當憂其所憂,樂其所樂。自古有道之主,以百姓之心為心,故君處臺榭,則欲民有棟宇之安;食膏粱,則欲民無饑寒之患;顧嬪御,則欲民有室家之歡。此人主之常道也。今鄭氏之女,久已許人,陛下取之不疑,無所顧問,播之四海,豈為民父母之道乎?臣傳聞雖或未的,然恐虧損聖德,情不敢隱。君舉必書,所願特留神慮。」太宗聞之大驚,手詔答之,深自克責,遂停策使,乃令女還舊夫。左僕射房玄齡、中書令溫彥博、禮部尚書王珪、御史大夫韋挺等云:「女適陸氏,無顯然之狀,大禮既行,不可中止。」又陸氏抗表云:「某父康在日,與鄭家往還,時相贈遺資財,初無婚姻交涉親戚。」並云:「外人不知,妄有此說。」大臣又勸進。太宗於是頗以為疑,問徵曰:「群臣或順旨,陸氏何為過爾分疏?」徵曰:「以臣度之,其意可識,將以陛下同於太上皇。」太宗曰:「何也?」徵曰:「太上皇初平京城,得辛處儉婦,稍蒙寵遇。處儉時為太子舍人,太上皇聞之不悅,遂令出東宮為萬年縣,每懷戰懼,常恐不全首領。陸爽以為陛下今雖容之,恐後陰加譴謫,所以反覆自陳,意在於此,不足為怪。」太宗笑曰:「外人意見,或當如此。然朕之所言,未能使人必信。」乃出敕曰:「今聞鄭氏之女,先已受人禮聘,前出文書之日,事不詳審,此乃朕之不是,亦為有司之過。授充華者宜停。」時莫不稱嘆!
新字:貞観二年,隋通事舎人鄭仁基女年十六七,容色絶姝,当時莫及。文徳皇后訪求得之,請備嬪御。太宗乃聘為充華。詔書已出,策使未発。魏徴聞其已許嫁陸氏,方遽進而言曰:「陛下為人父母,撫愛百姓,当憂其所憂,楽其所楽。自古有道之主,以百姓之心為心,故君処台榭,則欲民有棟宇之安;食膏粱,則欲民無饑寒之患;顧嬪御,則欲民有室家之歓。此人主之常道也。今鄭氏之女,久已許人,陛下取之不疑,無所顧問,播之四海,豈為民父母之道乎?臣伝聞雖或未的,然恐虧損聖徳,情不敢隠。君舉必書,所願特留神慮。」太宗聞之大驚,手詔答之,深自克責,遂停策使,乃令女還旧夫。左僕射房玄齢、中書令温彦博、礼部尚書王珪、御史大夫韋挺等云:「女適陸氏,無顕然之状,大礼既行,不可中止。」又陸氏抗表云:「某父康在日,与鄭家往還,時相贈遺資財,初無婚姻交渉親戚。」並云:「外人不知,妄有此説。」大臣又勧進。太宗於是頗以為疑,問徴曰:「群臣或順旨,陸氏何為過爾分疏?」徴曰:「以臣度之,其意可識,将以陛下同於太上皇。」太宗曰:「何也?」徴曰:「太上皇初平京城,得辛処倹婦,稍蒙寵遇。処倹時為太子舎人,太上皇聞之不悦,遂令出東宮為万年県,毎懐戦懼,常恐不全首領。陸爽以為陛下今雖容之,恐後陰加譴謫,所以反覆自陳,意在於此,不足為怪。」太宗笑曰:「外人意見,或当如此。然朕之所言,未能使人必信。」乃出勅曰:「今聞鄭氏之女,先已受人礼聘,前出文書之日,事不詳審,此乃朕之不是,亦為有司之過。授充華者宜停。」時莫不称嘆!
書き下し
貞観二年、隋の通事舎人鄭仁基の女、年は十六七。容色は絶姝にして、当時及ぶもの莫し。文徳皇后訪い求めて之を得、嬪御に備えんことを請う。太宗乃ち聘して充華と為す。詔書已に出づるも、策使未だ発せず。魏徴、其の已に陸氏に許嫁するを聞き、方に遽かに進みて言いて曰く、「陛下は人の父母と為り、百姓を撫愛す。当に其の憂うる所を憂え、其の楽しむ所を楽しむべし。古より有道の主は、百姓の心を以て心と為す。故に君、台榭に処らば、則ち民に棟宇の安き有らんことを欲す。膏粱を食らわば、則ち民に饑寒の患い無からんことを欲す。嬪御を顧みば、則ち民に室家の歓び有らんことを欲す。此れ人主の常道なり。今、鄭氏の女は、久しく已に人に許す。陛下之を取りて疑わず、顧問する所無し。之を四海に播(し)かば、豈に民の父母たるの道と為さんや。臣、伝聞は或いは未だ的(たしか)ならずと雖も、然れども聖徳を虧損せんことを恐る。情として敢えて隠さず。君の挙は必ず書せらる。願わくは特に神慮を留めよ」と。太宗之を聞きて大いに驚き、手詔して之に答え、深く自ら克責し、遂に策使を停め、乃ち女をして旧夫に還らしむ。左僕射房玄齢・中書令温彦博・礼部尚書王珪・御史大夫韋挺等云く、「女の陸氏に適(ゆ)くは、顕然の状無し。大礼既に行わる。中止すべからず」と。又た陸氏抗表して云く、「某の父康の在りし日、鄭家と往還す。時に相い資財を贈遺す。初めより婚姻交渉の親戚無し」と。並びに云く、「外人は知らず、妄りに此の説有り」と。大臣又た勧め進む。太宗是に於て頗る以て疑いと為し、徴に問いて曰く、「群臣或いは旨に順う。陸氏は何為れぞ爾(しか)く分疏するに過ぐるや」と。徴曰く、「臣の之を度るに、其の意識るべし。将に陛下を以て太上皇に同じくせんとするなり」と。太宗曰く、「何ぞや」と。徴曰く、「太上皇、初め京城を平らぐるや、辛処倹の婦を得、稍(やや)寵遇を蒙る。処倹は時に太子舎人と為る。太上皇之を聞きて悦ばず、遂に東宮を出でて万年県と為らしむ。毎に戦懼を懐き、常に首領を全うせざらんことを恐る。陸爽は以為えらく、陛下は今、之を容ると雖も、恐らくは後に陰かに譴謫を加えんと。反覆自ら陳ぶる所以は、意は此に在り。怪しむに足らず」と。太宗笑いて曰く、「外人の意見は、或いは当に此くの如くなるべし。然れども朕の言う所、未だ人をして必ず信ぜしむる能わず」と。乃ち勅を出して曰く、「今、鄭氏の女、先に已に人の礼聘を受くと聞く。前に文書を出すの日、事は詳審ならず。此れ乃ち朕の是ならざるなり。亦た有司の過と為す。充華を授くる者は宜しく停むべし」と。時に称嘆せざるは莫し。
現代語訳
貞観二年、隋の通事舎人であった鄭仁基の娘は、年が十六、七。容姿は並外れて美しく、当時これに及ぶ者はなかった。文徳皇后が探し求めて見つけ、後宮に迎えたいと願った。太宗は聘して充華の位に就けた。詔書はすでに出たが、正式の使者はまだ発していなかった。魏徴は、その娘がすでに陸氏に嫁ぐ約束をしていると聞き、急いで進み出て言った。「陛下は民の父母として、百姓を慈しんでおられます。まさに民の憂いを憂い、民の楽しみを楽しむべきです。昔から道ある君主は、民の心を自分の心としました。だから君主が高殿に住めば、民にも安らかな家があってほしいと願う。美食を口にすれば、民に飢えや寒さがないようにと願う。妃を顧みれば、民にも家庭の喜びがあってほしいと願う。これが君主の常道です。今、鄭氏の娘は、久しく人に嫁ぐ約束をしています。陛下は疑いもせずこれを取り、確かめもされなかった。これが天下に広まれば、どうして民の父母の道といえましょうか。臣の伝え聞いたことは確かでないかもしれませんが、聖なる徳を損なうことを恐れ、あえて隠しませんでした。君主の行いは必ず記録されます。どうか特にお心を留めてください」。太宗はこれを聞いて大いに驚き、自筆の詔で答え、深く自らを責め、ついに使者を止めて、娘をもとの婚約者に返させた。ところが左僕射の房玄齢、中書令の温彦博、礼部尚書の王珪、御史大夫の韋挺らは言った。「娘が陸氏に嫁ぐという明らかな証拠はありません。大礼はすでに行われました。中止すべきではありません」。また陸氏も上表して言った。「私の父の康が生きていた頃、鄭家と行き来があり、時折財産を贈り合いました。もともと婚姻の関わりはありません」。そして「外部の者が知らずに、勝手にこの説を立てたのです」と述べた。大臣たちはさらに進めるよう勧めた。太宗はこれで大いに疑い、魏徴に尋ねた。「群臣は私の意に従っている。陸氏はなぜあれほど弁解するのか」。魏徴は言った。「臣が推し量りますに、その意図は分かります。陛下を太上皇と同じだと見ているのです」。太宗は「どういうことか」と言った。魏徴は言った。「太上皇が初めて長安を平定した時、辛処倹の妻を得て、やや寵愛されました。辛処倹は当時、太子舎人でした。太上皇はこれを聞いて不快に思い、東宮から出して万年県の職に移しました。彼は常に恐れを抱き、首がつながらないのではと恐れていました。陸爽は、陛下が今は許しても、後で密かに罰を加えるのではと思っているのです。繰り返し弁解するのは、その意図です。怪しむには足りません」。太宗は笑って言った。「外の者の見方は、そういうものかもしれない。しかし私の言葉は、人に必ず信じさせることはできない」。そこで勅を出した。「今、鄭氏の娘は、すでに人から結納を受けていたと聞く。先に文書を出した日、事の調べが不十分だった。これは私の落ち度であり、また担当者の過ちでもある。充華に任じることは中止せよ」。当時、感嘆しない者はなかった。
解説
この章句が説くこと
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貞観政要・直諫貞観六年、人有りて尚書右丞魏徴を告げ、其の親戚に阿党すと言う。太宗は御史大夫温彦博をして其の事を案験せしむ。乃ち言う者の不直なり。彦博奏して称す、徴は既に人の道(い)う所と為る。私無きに在りと雖も、亦た責むべき有り、と。遂に彦博をして徴に謂わしめて曰く、「爾は我を諫正すること数百条。豈に此の小事を以て、便ち衆美を損なわんや。今より已後、形跡を存せざるを得ず」と。数日を居(お)き、太宗徴に問いて曰く、「昨来、外に在りて、何の不是の事有るを聞くや」と。徴曰く、「前日、彦博をして勅を宣べて臣に語らしめて云う、『何に因りてか形跡を存せざる』と。此の言は大いに不是なり。臣聞く、君臣は気を同じくし、義は一体に均し、と。未だ公道を存せずして、惟だ形跡を事とするを聞かず。若し君臣上下、同じく此の路に遵(したが)わば、則ち邦国の興喪は、或いは未だ知るべからず」と。太宗矍然として容を改めて曰く、「前に此の語を発するも、尋いで已に之を悔ゆ。実に大いに不是なり。公も亦た遂に隠避を懐くを得ざれ」と。徴乃ち拝して言いて曰く、「臣は身を以て国に許す。直道にして行う。必ず敢えて欺負する所有らず。但だ願わくは陛下、臣をして良臣と為らしめよ。臣をして忠臣と為らしむる勿かれ」と。太宗曰く、「忠と良とに異なる有るか」と。徴曰く、「良臣は身をして美名を獲しめ、君は顕号を受く。子孫は世を伝え、福禄は疆り無し。忠臣は身は誅夷を受け、君は大悪に陥る。家と国と並びに喪び、独り其の名有るのみ。此を以て言えば、相い去ること遠し」と。太宗曰く、「君は但だ此の言に違う莫かれ。我は必ず社稷の計を忘れず」と。乃ち絹二百匹を賜う。
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貞観政要・直諫貞観六年、匈奴克(よ)く平らぎ、遠夷入貢し、符瑞日に至り、年穀頻りに登(みの)る。岳牧等屢々封禅を請う。群臣等又た功徳を称述し、以為えらく「時は失うべからず、天は違うべからず。今、之を行うも、臣等は猶お其れ晩しと謂う」と。惟だ魏徴のみ以て不可と為す。太宗曰く、「朕は卿の直言を得んと欲す。隠す所有る勿かれ。朕の功は高からざるか」と。曰く、「高し」と。「徳は未だ厚からざるか」と。曰く、「厚し」と。「華夏は未だ安からざるか」と。曰く、「安し」と。「遠夷は未だ慕わざるか」と。曰く、「慕う」と。「符瑞は未だ至らざるか」と。曰く、「至る」と。「年穀は未だ登らざるか」と。曰く、「登る」と。「然らば則ち何為れぞ不可なる」と。対えて曰く、「陛下の功は高し。而れども民は未だ恵みに懐(なつ)かず。徳は厚し。而れども沢は未だ旁(あまね)く流れず。華夏は安し。而れども未だ事に供するに足らず。遠夷は慕う。而れども以て其の求めに供する無し。符瑞は臻(いた)ると雖も、而れども罻羅(いら)は猶お密なり。歳を積みて豊稔なるも、而れども倉廩は尚お虚し。此れ臣の窃かに未だ可ならずと謂う所以なり。臣は未だ遠く譬うる能わず。且く近く人に喩を借らん。人有り、長く疼痛を患い、任持する能わず。療理して且(まさ)に愈えんとするも、皮骨僅かに存す。便ち一石の米を負い、日に百里を行かんと欲するも、必ず得べからず。隋氏の乱は、十年に止まらず。陛下は之が良医と為り、其の疾苦を除く。已に乂安なりと雖も、未だ甚だしくは充実ならず。成るを天地に告ぐるは、臣窃かに疑い有り。且つ陛下、東のかた封ぜば、万国咸な萃(あつ)まらん。要荒の外、奔馳せざる莫し。今、伊・洛の東より、海・岱に暨(およ)ぶまで、萑莽(かんぼう)の巨沢、茫茫たること千里。人煙は断絶し、鶏犬も聞こえず。道路は蕭条として、進退は艱阻なり。寧ぞ彼の戎狄を引き、示すに虚弱を以てすべけんや。財を竭くして以て賞するも、未だ遠人の望みを厭(あ)かしめず。年を加え復を給するも、百姓の労に償わず。或いは水旱の災、風雨の変に遇わば、庸夫は邪議し、悔ゆるも追うべからず。豈に独り臣の誠懇のみならんや。亦た輿人の論有り」と。太宗善しと称す。是に於て乃ち止む。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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