貞観政要 / 求諫
貞觀二年,太宗謂侍臣曰:「明主思短而益善,暗主護短而永愚。隋煬帝好自矜誇,護短拒諫,誠亦實難犯忤。虞世基不敢直言,或恐未為深罪。昔箕子佯狂自全,孔子亦稱其仁。及煬帝被殺,世基合同死否?」杜如晦對曰:「天子有諍臣,雖無道不失其天下。仲尼稱:『直哉史魚,邦有道如矢,邦無道如矢。』世基豈得以煬帝無道,不納諫諍,遂杜口無言?偷安重位,又不能辭職請退,則與箕子佯狂而去,事理不同。昔晉惠帝賈後將廢湣懷太子,司空張華竟不能苦爭,阿意茍免。及趙王倫舉兵廢後,遣使收華,華曰:『將廢太子日,非是無言,當不被納用。』其使曰:『公為三公,太子無罪被廢,言既不從,何不引身而退?』華無辭以答,遂斬之,夷其三族。古人有云:『危而不持,顛而不扶,則將焉用彼相?』故『君子臨大節而不可奪也。』張華既抗直不能成節,遜言不足全身,王臣之節固已墜矣。虞世基位居宰輔,在得言之地,竟無一言諫諍,誠亦合死。」太宗曰:「公言是也。人君必須忠良輔弼,乃得身安國寧。煬帝豈不以下無忠臣,身不聞過,惡積禍盈,滅亡斯及。若人主所行不當,臣下又無匡諫,茍在阿順,事皆稱美,則君為暗主,臣為諛臣,君暗臣諛,危亡不遠。朕今誌在君臣上下,各盡至公,共相切磋,以成治道。公等各宜務盡忠讜,匡救朕惡,終不以直言忤意,輒相責怒。」
新字:貞観二年,太宗謂侍臣曰:「明主思短而益善,暗主護短而永愚。隋煬帝好自矜誇,護短拒諫,誠亦実難犯忤。虞世基不敢直言,或恐未為深罪。昔箕子佯狂自全,孔子亦称其仁。及煬帝被殺,世基合同死否?」杜如晦対曰:「天子有諍臣,雖無道不失其天下。仲尼称:『直哉史魚,邦有道如矢,邦無道如矢。』世基豈得以煬帝無道,不納諫諍,遂杜口無言?偸安重位,又不能辞職請退,則与箕子佯狂而去,事理不同。昔晋恵帝賈後将廃湣懐太子,司空張華竟不能苦争,阿意苟免。及趙王倫舉兵廃後,遣使収華,華曰:『将廃太子日,非是無言,当不被納用。』其使曰:『公為三公,太子無罪被廃,言既不従,何不引身而退?』華無辞以答,遂斬之,夷其三族。古人有云:『危而不持,顛而不扶,則将焉用彼相?』故『君子臨大節而不可奪也。』張華既抗直不能成節,遜言不足全身,王臣之節固已墜矣。虞世基位居宰輔,在得言之地,竟無一言諫諍,誠亦合死。」太宗曰:「公言是也。人君必須忠良輔弼,乃得身安国寧。煬帝豈不以下無忠臣,身不聞過,悪積禍盈,滅亡斯及。若人主所行不当,臣下又無匡諫,苟在阿順,事皆称美,則君為暗主,臣為諛臣,君暗臣諛,危亡不遠。朕今誌在君臣上下,各尽至公,共相切磋,以成治道。公等各宜務尽忠讜,匡救朕悪,終不以直言忤意,輒相責怒。」
書き下し
貞観二年、太宗侍臣に謂いて曰く、「明主は短を思いて益ます善く、暗主は短を護りて永く愚なり。隋の煬帝は好んで自ら矜誇(きょうこ)し、短を護りて諫を拒む。誠に亦た実に犯忤(はんご)し難し。虞世基は敢えて直言せず。或いは恐らくは未だ深き罪と為さず。昔、箕子は狂を佯(いつわ)りて自ら全うす。孔子も亦た其の仁を称す。煬帝の殺さるるに及び、世基は同に死すに合するや否や」と。杜如晦対えて曰く、「天子に諍臣有らば、無道なりと雖も其の天下を失わず。仲尼は称す、『直なるかな史魚。邦に道有れば矢の如く、邦に道無きも矢の如し』と。世基、豈に煬帝の無道にして、諫諍を納れざるを以て、遂に口を杜(と)ざして言う無かるべけんや。位を偸安(とうあん)して重んじ、又た職を辞し退くを請う能わず。則ち箕子の狂を佯りて去るとは、事理同じからず。昔、晋の恵帝の賈后は将に湣懐太子を廃せんとす。司空張華は竟に苦争する能わず、意に阿(おもね)りて苟(いやしく)も免る。趙王倫の兵を挙げて后を廃するに及び、使いを遣わして華を収む。華曰く、『将に太子を廃せんとするの日、是れ言無きに非ず。当に納用せられざりしなり』と。其の使曰く、『公は三公と為る。太子罪無くして廃せらる。言既に従われずんば、何ぞ身を引きて退かざる』と。華は辞として以て答うる無し。遂に之を斬り、其の三族を夷(たい)らぐ。古人に云える有り、『危うくして持せず、顛れて扶けずんば、則ち将た焉くんぞ彼の相を用いん』と。故に『君子は大節に臨みて奪うべからざるなり』。張華は既に抗直にして節を成す能わず。遜言も身を全うするに足らず。王臣の節は固より已に墜ちたり。虞世基は位は宰輔に居り、言うを得るの地に在り。竟に一言の諫諍無し。誠に亦た死に合す」と。太宗曰く、「公の言は是なり。人君は必ず須らく忠良の輔弼を得べし。乃ち身安く国寧きを得ん。煬帝は豈に下に忠臣無く、身は過ちを聞かず、悪積み禍盈ち、滅亡斯に及ぶに非ずや。若し人主の行う所当たらずして、臣下又た匡諫する無く、苟も阿順に在り、事皆な美を称せば、則ち君は暗主と為り、臣は諛臣と為る。君暗く臣諛(へつら)わば、危亡遠からず。朕は今、志は君臣上下、各々至公を尽くし、共に相切磋して、以て治道を成すに在り。公等は各々宜しく忠讜を尽くし、朕の悪を匡救するに務むべし。終に直言の意に忤(さか)らうを以て、輒(すなわ)ち相責怒せず」と。
現代語訳
貞観二年、太宗が側近の臣に言った。「明君は自分の短所を思ってますます善くなり、暗君は短所をかばって永久に愚かなままだ。隋の煬帝は自分を誇り、短所をかばい、諫言を拒んだ。確かに逆らいにくかっただろう。虞世基が直言できなかったのも、深い罪とは言えないかもしれない。昔、箕子は狂人を装って身を全うし、孔子もその仁を讃えた。煬帝が殺された時、虞世基も一緒に死ぬべきだったのだろうか」。杜如晦が答えた。「天子に諫める臣がいれば、無道であっても天下を失いません。孔子は『まっすぐだな、史魚は。国に道があっても矢のようであり、国に道がなくても矢のようだ』と讃えました。虞世基が、煬帝が無道で諫言を受け入れないからといって、口を閉ざして黙っていてよいものでしょうか。高い地位に安住し、しかも職を辞して退くこともしなかった。箕子が狂気を装って去ったのとは、事情がまったく違います。昔、晋の恵帝の賈后が湣懐太子を廃そうとした時、司空の張華はついに強く争わず、意に迎合して身を守りました。趙王倫が兵を挙げて后を廃した時、使者を送って張華を捕らえました。張華は『太子を廃する日、私は何も言わなかったわけではない。用いられなかったのだ』と言った。使者は『あなたは三公の位にある。太子が罪もなく廃されるのに、言葉が用いられなかったなら、なぜ身を引いて退かなかったのか』と言った。張華は答える言葉がなかった。ついに斬られ、三族を滅ぼされました。古人は『危ういのに支えず、倒れかけているのに助けないなら、その宰相を何に用いるのか』と言いました。だから『君子は大節に臨んで、志を奪われてはならない』のです。張華はまっすぐでありながら節を全うできず、へりくだった言葉でも身を守れなかった。臣下としての節は、すでに地に堕ちていました。虞世基は宰相の位にあり、意見を言える立場にいた。それなのに一言の諫言もなかった。まことに死に値します」。太宗は言った。「あなたの言葉は正しい。君主は必ず忠良な補佐を得なければならない。そうして初めて身は安く、国は寧らかになる。煬帝は、下に忠臣がなく、自分の過ちを聞かず、悪が積もり禍が満ちて、滅亡に至ったのではないか。もし君主の行いが不当なのに、臣下がそれを正さず、迎合ばかりで、すべてを美しいと称えれば、君主は暗君となり、臣下はへつらい者となる。君主が暗く臣下がへつらえば、危亡は遠くない。私は今、君臣上下がそれぞれ公を尽くし、互いに切磋して治世を成すことを志している。諸君はそれぞれ忠実な言葉を尽くし、私の悪を正し救うよう努めよ。決して直言が意に逆らうからといって、責めたり怒ったりはしない」。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』外篇・治道・公正の二字公正の二字は是れ世界を撐持し底る。這の二字沒し了はれば、便ち天を塌さん。
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『臣軌』卷上 公正章人を理むるの道は万端なるも、之を行う所以は一に在り。一とは何ぞや。公のみ。唯だ公心のみ以て国を奉ず可く、唯だ公心のみ以て家を理む可し。公道行わるれば、則ち神明労せずして邪自ずから息み、私道行わるれば、則ち刑罰繁くして邪禁ぜられず。故に公の道為るや、言甚だ少なくして用甚だ博し。夫れ心なる者は、神明の主、万理の統なり。動きて正を失わざれば、天地も感ず可し、而るを況んや人に於いてをや。故に古の君子は、先ず其の心を正す。
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『春秋左氏伝』宣公十六年 民の多幸は国の不幸十六年春、晉の士會師を帥ゐて赤狄の甲氏及び留吁・鐸辰を滅ぼす。三月、狄の俘を獻ず。晉侯王に請ひ、戊申、黻冕を以て士會に命じて中軍に將とし、且つ大傅と為す。是に於て晉國の盜、逃れて秦に奔る。羊舌職曰く、「吾之を聞く、禹善人を稱げて、不善人遠ざかると。此の謂なり。夫れ詩に曰く、『戰戰兢兢として、深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し』と。善人上に在るなり。善人上に在れば、則ち國に幸民無し。諺に曰く、『民の幸多きは、國の不幸なり』と。是れ善人無きの謂なり」と。夏、成周の宣榭火あり、人之に火するなり。凡そ火は、人火を火と曰ひ、天火を災と曰ふ。秋、郯の伯姬來り歸る、出されたるなり。毛・召の難の故の為に、王室復た亂る。王孫蘇晉に奔る、晉人之を復す。冬、晉侯士會をして王室を平がしむ。定王之を享し、原襄公禮を相く。殽烝す。武子私かに其の故を問ふ。王之を聞き、武子を召して曰く、「季氏、而聞かざるか。王の享には體薦有り、宴には折俎有り。公は享に當り、卿は宴に當る、王室の禮なり」と。武子歸りて典禮を講求し、以て晉國の法を脩む。
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史記 蒙恬列伝趙高は、諸趙の疏遠の属なり。趙高の昆弟数人、皆隠宮に生まれ、其の母刑僇せられ、世世卑賤なり。秦王、高の彊力にして獄法に通ずるを聞き、挙げて以て中車府令と為す。高既に私かに公子胡亥に事へ、之に決獄を喩す。高大罪有り。秦王蒙毅をして法もて之を治めしむ。毅敢て法を阿らず、高の罪死に当つとし、其の宦籍を除く。帝、高の事に敦きを以て、之を赦し、其の官爵を復す。始皇天下に游ばんと欲し、九原に道して、直ちに甘泉に抵らんとし、乃ち蒙恬をして道を通ぜしむ。九原より甘泉に抵るまで、山を塹り谷を堙むること、千八百里。道未だ就らず。始皇の三十七年冬、行きて出でて会稽に游び、海上に并ひて、北のかた瑯邪に走る。道にて病み、蒙毅をして還りて山川に禱らしむ。未だ反らず。始皇沙丘に至りて崩ず。之を秘し、群臣知る莫し。是の時丞相李斯・公子胡亥・中車府令趙高常に従ふ。高雅より胡亥に幸せられ、之を立てんと欲す。又蒙毅の法もて之を治めて己の為にせざるを怨む。因りて賊心有り、乃ち丞相李斯・公子胡亥と陰謀し、胡亥を立てて太子と為す。太子已に立ち、使者を遣はして罪を以て公子扶蘇・蒙恬に死を賜ふ。扶蘇已に死す。蒙恬疑ひて復た之を請ふ。使者蒙恬を以て吏に属し、更めて置く。胡亥、李斯の舎人を以て護軍と為す。使者還りて報ず。胡亥已に扶蘇の死を聞き、即ち蒙恬を釈さんと欲す。趙高、蒙氏の復た貴くして事を用ひんことを恐れ、之を怨む。毅還りて至る。趙高因りて胡亥の為に忠計すると為し、以て蒙氏を滅ぼさんと欲し、乃ち言ひて曰く、「臣聞く、先帝賢を挙げて太子を立てんと欲すること久し。而るに毅諫めて曰く『不可なり』と。若し賢を知りて俞ほ立てずんば、則ち是れ不忠にして主を惑はすなり。臣の愚意を以てすれば、之を誅するに若かず」と。胡亥聴きて蒙毅を代に系ぐ。前に已に蒙恬を陽周に囚ふ。喪咸陽に至り、已に葬り、太子立ちて二世皇帝と為る。而して趙高親近し、日夜蒙氏を毀悪し、其の罪過を求め、之を挙劾す。
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