貞観政要 / 任賢
馬周,博州茌平人也。貞觀五年,至京師,舍於中郎將常何之家。時太宗令百官上書言得失,周為何陳便宜二十餘事,令奏之,事皆合旨。太宗怪其能,問何,何對曰:「此非臣所發意,乃臣家客馬周也。」太宗即日召之,未至間,凡四度遣使催促。及謁見,與語其悅。令直門下省,授監察御史,累除中書舍人。周有機辯,能敷奏,深識事端,故動無不中。太宗嘗曰:「我於馬周,暫時不見,則便思之。」十八年,歷遷中書令,兼太子左庶子。周既職兼兩宮,處事平允,甚獲當時之譽。又以本官攝吏部尚書。太宗嘗謂侍臣曰:「周見事敏速,性甚慎至。至於論量人物,直道而言,朕比任使之,多稱朕意。既寫忠誠,親附於朕,實藉此人,共康時政也。」
新字:馬周,博州茌平人也。貞観五年,至京師,舎於中郎将常何之家。時太宗令百官上書言得失,周為何陳便宜二十余事,令奏之,事皆合旨。太宗怪其能,問何,何対曰:「此非臣所発意,乃臣家客馬周也。」太宗即日召之,未至間,凡四度遣使催促。及謁見,与語其悦。令直門下省,授監察御史,累除中書舎人。周有機弁,能敷奏,深識事端,故動無不中。太宗嘗曰:「我於馬周,暫時不見,則便思之。」十八年,歴遷中書令,兼太子左庶子。周既職兼両宮,処事平允,甚獲当時之誉。又以本官摂吏部尚書。太宗嘗謂侍臣曰:「周見事敏速,性甚慎至。至於論量人物,直道而言,朕比任使之,多称朕意。既写忠誠,親附於朕,実藉此人,共康時政也。」
書き下し
馬周は、博州茌平(しへい)の人なり。貞観五年、京師に至り、中郎将常何の家に舎(やど)る。時に太宗は百官に令して書を上りて得失を言わしむ。周は何の為に便宜二十余事を陳べ、之を奏せしむ。事皆な旨に合す。太宗は其の能を怪しみ、何に問う。何対えて曰く、「此れ臣の意を発する所に非ず。乃ち臣が家の客馬周なり」と。太宗は即日之を召す。未だ至らざる間に、凡そ四度使いを遣わして催促す。謁見するに及び、与に語りて甚だ悦ぶ。門下省に直せしめ、監察御史を授け、累ねて中書舎人に除す。周は機辯有り、能く敷奏し、深く事端を識る。故に動けば中(あた)らざる無し。太宗嘗て曰く、「我は馬周に於いて、暫時も見ざれば、則ち便ち之を思う」と。十八年、歴遷して中書令、兼ねて太子左庶子と為る。周は既に職は両宮を兼ね、事を処するに平允なり。甚だ当時の誉れを獲たり。又た本官を以て吏部尚書を摂す。太宗嘗て侍臣に謂いて曰く、「周は事を見ること敏速、性は甚だ慎至なり。人物を論量するに至りては、直道にして言う。朕は比(このごろ)之を任使するに、多く朕の意に称う。既に忠誠を写(あら)わし、親しく朕に附く。実に此の人に藉(よ)りて、共に時政を康(やす)んぜん」と。
現代語訳
馬周は、博州茌平の人である。貞観五年、長安に来て、中郎将の常何の家に寄宿していた。当時、太宗は百官に上書して政治の得失を述べるよう命じていた。馬周は常何のために、時宜にかなった献策を二十余件書いて奏上させた。その内容はすべて太宗の意にかなった。太宗はその才能を怪しみ、常何に尋ねた。常何は答えた。「これは私が考えたことではありません。私の家の食客、馬周の書いたものです」。太宗はその日のうちに馬周を召した。到着するまでの間に、四度も使者を出して催促した。謁見して語り合い、大いに喜んだ。門下省に勤務させ、監察御史を授け、次々と中書舎人に任じた。馬周は機知と弁舌があり、上奏がうまく、物事の要点を深く見抜いた。だから動けば必ず的中した。太宗はかつて言った。「私は馬周を、しばらく見ないだけで、もう会いたくなる」。十八年、中書令に移り、太子左庶子を兼ねた。馬周は両宮の職を兼ねながら、事の処理は公平であった。当時、大いに名声を得た。さらに本官のまま吏部尚書を代行した。太宗はかつて側近に言った。「馬周は物事を見るのが機敏で、性格は極めて慎重だ。人物を評価するとなると、まっすぐに言う。私は近頃彼を使っているが、多くが私の意にかなう。忠誠を示し、親しく私に付き従っている。まことにこの人によって、ともに世の政治を安んじたい」。
解説
この章句が説くこと
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史記 酈生陸賈列伝酈生食其(れきせいいき)は、陳留高陽の人なり。読書を好み、家貧しく落魄して、以て衣食の業を為す無く、里の監門の吏と為る。然れども県中の賢豪敢へて役せず、県中皆之を狂生と謂ふ。陳勝・項梁等の起こるに及び、諸将の地を徇へて高陽を過ぐる者数十人、酈生其の将皆握齱(あくさく)として苛礼を好み自ら用ひ、大度の言を聴く能はずと聞き、酈生乃ち深く自ら蔵匿す。後に沛公兵を将ゐて地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士、適(たまたま)酈生の里中の子なり、沛公時時邑中の賢士豪俊を問ふ。騎士帰る。酈生見えて之に謂ひて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易(あなど)るも、大略多しと。此れ真に吾が従ひて游ばんと願ふ所なり、我が為に先(さきだ)つ莫し。若し沛公に見えなば、謂ひて曰へ、『臣が里中に酈生有り、年六十余、長八尺、人皆之を狂生と謂ふも、生は自ら我は狂生に非ずと謂ふ』と」と。騎士曰く、「沛公は儒を好まず、諸客の儒冠を冠して来たる者あれば、沛公輒ち其の冠を解き、其の中に溲溺(そうでき)す。人と言ふに、常に大いに罵る。未だ儒生を以て説くべからざるなり」と。酈生曰く、「弟(ただ)之を言へ」と。騎士従容として酈生の誡むる所の如く言ふ。沛公高陽の伝舎に至り、人をして酈生を召さしむ。酈生至り、入りて謁す。沛公方に床に倨して両女子をして足を洗はしめ、而して酈生を見る。酈生入り、則ち長揖して拝せず、曰く、「足下は秦を助けて諸侯を攻めんと欲するか。且(はた)諸侯を率ゐて秦を破らんと欲するか」と。沛公罵りて曰く、「豎儒(じゅじゅ)。夫れ天下同じく秦に苦しむこと久し、故に諸侯相率ゐて秦を攻む。何ぞ秦を助けて諸侯を攻むと謂ふや」と。酈生曰く、「必ず徒を聚め義兵を合はせて無道の秦を誅せんとならば、宜しく倨して長者を見るべからず」と。是に於て沛公洗ふを輟め、起ちて衣を摂(ととの)へ、酈生を延きて上坐せしめ、
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『講孟余話』告子下 第十三章好善の二字、全章の主意にして、不好善は其の裏なり。中庸に云く、「舜は其れ大知なるか。舜は問ふことを好みて邇言を察することを好む」。秦誓に曰く、「若し一个の臣有り、断々として他の技無く、其の心休休焉として、其れ容るる有るが如し。人の技有る、己之れを有するが若くし、人の彦聖なる、其の心之れを好みし、啻に其の口より出づるが若くするのみならず、寔に能く之れを容る。以て能く我が子孫黎民を保んず、尚はくは亦利有らんかな。人の技有る、媢疾して以て之れを悪み、人の彦聖なる、之れに違ひて通ぜざらしむ。寔に容るること能はず、以て我が子孫黎民を保んずること能はず。亦曰に殆いかな」。大学に引くところ及び此の章と、人の上となり政を執る者、一通を録して座右の銘となすべし。才を嫉み能を妬む時は、有志の士日に屈し、朝廷無人の地となり、一国の正気衰荼し、甚しきは正気下に鬱結し、大変乱を発するに至る。古今乱亡の朝野を歴観するに、皆然らざることなし。大抵変乱を煽起する者は皆傑物なり。故に乱首賊魁となる者、登りて朝廷にあれば良臣賢臣なり。鄭芝龍の如き、去れば則ち海賊なり、帰すれば則ち名将なり。平将門も早く検非違使とならば能吏の名あらん、去りて東すれば則ち朝敵なり。人皆然り、此の二人は特に其の甚しき者なり。是れを以て政を為すの難からざるを知るべし。豪傑を登崇して朝廷に措けば国安く、豪傑を黜斥して草野に放てば国危し。大国・小国・大事・小事、皆類推すべし。畏るべきの甚しきに非ずや。
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史記 李斯列伝臣聞く、地広き者は粟多く、国大なる者は人衆く、兵彊ければ則ち士勇なりと。是を以て太山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成す。河海は細流を択ばず、故に能く其の深きを就す。王者は衆庶を卻けず、故に能く其の徳を明らかにす。是を以て地に四方無く、民に異国無く、四時充美にして、鬼神福を降す。此れ五帝・三王の敵無き所以なり。今乃ち黔首を棄てて以て敵国に資し、賓客を卻けて以て諸侯に業し、天下の士をして退きて敢て西に向かはず、足を裹みて秦に入らざらしむ。此れ所謂「寇に兵を藉して盗に糧を齎す」者なり。夫れ物の秦に産せずして、宝とすべき者多し。士の秦に産せずして、忠を願ふ者衆し。今客を逐ひて以て敵国に資し、民を損じて以て讎を益し、内自ら虚しくして外怨みを諸侯に樹つ。国の危ふき無きを求むるも、得べからざるなり、と。秦王乃ち逐客の令を除き、李斯の官を復し、卒に其の計謀を用ふ。
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史記 季布欒布列伝季布は、楚の人なり。気を為し任侠たり、楚に名有り。項籍兵を将ゐしめ、数々漢王を窘む。項羽滅ぶるに及び、高祖布を千金に購求し、敢へて舎匿する有らば、罪三族に及ぶとす。季布濮陽の周氏に匿る。周氏曰く「漢将軍を購ふこと急なり、跡且に臣の家に至らんとす、将軍能く臣に聴かば、臣敢へて計を献ぜん。即し能はずんば、願はくは先づ自剄せん」と。季布之を許す。乃ち季布を髡鉗し、褐衣を衣せ、広柳車の中に置き、并びに其の家僮数十人と、魯の朱家の所に之きて之を売る。朱家心に是れ季布なるを知り、乃ち買ひて之を田に置く。其の子を誡めて曰く「田事は此の奴に聴け、必ず与に食を同じくせよ」と。朱家乃ち軺車に乗りて洛陽に之き、汝陰侯滕公に見ゆ。滕公朱家を留めて飲むこと数日。因りて滕公に謂ひて曰く「季布何の大罪ありて、上之を求むること急なるや」と。滕公曰く「布数々項羽の為に上を窘む、上之を怨む、故に必ず之を得んと欲す」と。朱家曰く「君季布を視ること何如なる人ぞ」と。曰く「賢者なり」と。朱家曰く「臣は各々其の主の為に用ひらる、季布の項籍の為に用ひらるるは、職のみ。項氏の臣尽く誅すべけんや。今上始めて天下を得て、独り己の私怨を以て一人を求む、何ぞ天下に広からざるを示すや。且つ季布の賢を以てして漢之を求むること此くの如く急なれば、此れ北のかた胡に走らずんば即ち南のかた越に走らんのみ。夫れ壮士を忌みて以て敵国に資するは、此れ伍子胥の荊の平王の墓に鞭うちし所以なり。君何ぞ従容として上の為に言はざるや」と。汝陰侯滕公心に朱家の大侠なるを知り、季布其の所に匿るると意ひ、乃ち許して曰く「諾」と。間を待ちて、果たして朱家の指の如く言ふ。上乃ち季布を赦す。是の時に当たり、諸公皆季布の能く剛を摧きて柔と為すを多とし、
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史記 酈生陸賈列伝使者対へて曰く、「状貌大儒に類し、儒衣を衣、側注を冠す」と。沛公曰く、「我が為に之に謝せよ。我方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらずと言へ」と。使者出でて謝して曰く、「沛公敬んで先生に謝す、方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらざるなり」と。酈生目を瞋らし剣を案じて使者を叱して曰く、「走れ。復た入りて沛公に言へ、吾は高陽の酒徒なり、儒人に非ざるなりと」と。使者懼れて謁を失ひ、跪きて謁を拾ひ、還り走り、復た入りて報じて曰く、「客は天下の壮士なり。臣を叱す、臣恐れて、謁を失ふに至る。曰く、『走れ。復た入りて言へ、而公(だいこう)は高陽の酒徒なり』と」と。沛公遽かに足を雪(すす)ぎ矛を杖つきて曰く、「客を延きて入れよ」と。酈生入り、沛公に揖して曰く、「足下甚だ苦しみ、衣を暴し冠を露し、兵を将ゐて楚を助けて不義を討つ。足下何ぞ自ら喜ばざるや。臣事を以て見えんと願ふに、而も曰く、『吾方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらざるなり』と。夫れ足下天下の大事を興して天下の大功を成さんと欲するに、而も目を以て皮相せば、恐らくは天下の能士を失はん。且つ吾足下の智を度るに吾に如かず、勇も又吾に如かず。若し天下を就さんと欲して相見えずんば、窃かに足下の為に之を失へりとす」と。沛公謝して曰く、「郷(さき)には先生の容を聞き、今は先生の意を見る」と。乃ち延きて之を坐せしめ、天下を取る所以の者を問ふ。酈生曰く、「夫れ足下大功を成さんと欲せば、陳留に止まるに如かず。陳留は天下の拠衝なり、兵の会地なり。積粟数千万石、城守甚だ堅し。臣素より其の令に善し、願はくは足下の為に之に説かん。臣に聴かずんば、臣請ふ足下の為に之を殺して、陳留を下さん。足下陳留の衆を将ゐ、陳留の城に拠りて、其の積粟を食み、天下の従兵を招け。従兵已に成らば、足下天下に横行し、能く足下を害する者有る莫からん」と。沛公曰く、「敬んで命を聞く」と。
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『春秋左氏伝』哀公二年 公孫尨、主の徳に報ゆ鄭の師大いに敗れ、齊の粟千車を獲たり。趙孟喜びて曰く、「可なり」と。傅傁曰く、「鄭に克つと雖も、猶ほ知在る有り。憂ひ未だ艾(や)まざるなり」と。初め、周人、范氏に田を與ふ。公孫尨焉に稅す。趙氏得て之を獻ず。吏之を殺さんことを請ふ。趙孟曰く、「其の主の為にするなり。何の罪かあらん」と。止めて之に田を與ふ。鐵の戰に及び、徒五百人を以て、宵に鄭の師を攻め、蜂旗を子姚の幕下に取りて、獻じて曰く、「請ふ主の德に報いん」と。鄭の師を追ふ。姚・般・公孫林、殿して射る。前列多く死す。趙孟曰く、「國に小無し」と。既に戰ひて、簡子曰く、「吾弢に伏して血を嘔けども、鼓音衰へず。今日我上なり」と。大子曰く、「吾主を車に救ひ、敵を下に退く。我は右の上なり」と。郵良曰く、「我が兩靷將に絕えんとす。吾能く之を止む。我は御の上なり」と。駕して材に乘るに、兩靷皆絕ゆ。吳の洩庸、蔡に如きて聘を納れ、而して稍く師を納る。師畢く入り、眾之を知る。蔡侯大夫に告げ、公子駟を殺して以て說く。哭して墓を遷す。冬、蔡、州來に遷る。
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