貞観政要 / 任賢
李勣,曹州離狐人也。本姓徐,初仕李密,為左武侯大將軍。密後為王世充所破,擁眾歸國,勣猶據密舊境十郡之地。武德二年,謂長史郭孝恪曰:「魏公既歸大唐,今此人眾土地,魏公所有也。吾若上表獻之,則是利主之敗,自為己功,以邀富貴,是吾所恥。今宜具錄州縣及軍人戶口,總啟魏公,聽公自獻,此則魏公之功也,不亦可乎?」乃遣使啟密。使人初至,高祖聞無表,惟有啟與密,甚怪之。使者以勣意聞奏,高祖方大喜曰:「徐勣感德推功,實純臣也。」拜黎州總管,賜姓李氏,附屬籍於宗正。封其父蓋為濟陰王,固辭王爵,乃封舒國公,授散騎常侍。尋加勣右武侯大將軍。及李密反叛伏誅,勣發喪行服,備君臣之禮,表請收葬。高祖遂歸其屍。於是大具威儀,三軍縞素,葬於黎陽山。禮成,釋服而散,朝野義之。尋為竇建德所攻,陷於建德,又自拔歸京師。從太宗征王世充、竇建德,平之。貞觀元年,拜并州都督,令行禁止,號為稱職,突厥甚加畏憚。太宗謂侍臣曰:「隋煬帝不解精選賢良,鎮撫邊境,惟遠築長城,廣屯將士,以備突厥,而情識之惑,一至於此。朕今委任李勣於并州,遂得突厥畏威遠遁,塞垣安靜,豈不勝數千里長城耶?」其後并州改置大都督府,又以勣為長史,累封英國公。在并州凡十六年。召拜兵部尚書,兼知政事。勣時遇暴疾,驗方云須灰可以療之,太宗自剪須為其和藥。勣頓首見血,泣以陳謝。太宗曰:「吾為社稷計耳,不煩深謝。」十七年,高宗居春宮,轉太子詹事,加特進,仍知政事。太宗又嘗宴,顧勣曰:「朕將屬以孤幼,思之無越卿者。公往不遺於李密,今豈負於朕哉!」勣雪涕致辭,因噬指流血。俄沈醉,御服覆之,其見委信如此。勣每行軍,用師籌算,臨敵應變,動合事機。自貞觀以來,討擊突厥、頡利及薛延陀、高麗等,並大破之。太宗嘗曰:「李靖、李勣二人,古之韓、白,衛、霍豈能及也。」
新字:李勣,曹州離狐人也。本姓徐,初仕李密,為左武侯大将軍。密後為王世充所破,擁衆帰国,勣猶拠密旧境十郡之地。武徳二年,謂長史郭孝恪曰:「魏公既帰大唐,今此人衆土地,魏公所有也。吾若上表献之,則是利主之敗,自為己功,以邀富貴,是吾所恥。今宜具録州県及軍人戸口,総啓魏公,聴公自献,此則魏公之功也,不亦可乎?」乃遣使啓密。使人初至,高祖聞無表,惟有啓与密,甚怪之。使者以勣意聞奏,高祖方大喜曰:「徐勣感徳推功,実純臣也。」拝黎州総管,賜姓李氏,附属籍於宗正。封其父蓋為済陰王,固辞王爵,乃封舒国公,授散騎常侍。尋加勣右武侯大将軍。及李密反叛伏誅,勣発喪行服,備君臣之礼,表請収葬。高祖遂帰其屍。於是大具威儀,三軍縞素,葬於黎陽山。礼成,釈服而散,朝野義之。尋為竇建徳所攻,陥於建徳,又自抜帰京師。従太宗征王世充、竇建徳,平之。貞観元年,拝并州都督,令行禁止,号為称職,突厥甚加畏憚。太宗謂侍臣曰:「隋煬帝不解精選賢良,鎮撫辺境,惟遠築長城,広屯将士,以備突厥,而情識之惑,一至於此。朕今委任李勣於并州,遂得突厥畏威遠遁,塞垣安静,豈不勝数千里長城耶?」其後并州改置大都督府,又以勣為長史,累封英国公。在并州凡十六年。召拝兵部尚書,兼知政事。勣時遇暴疾,験方云須灰可以療之,太宗自剪須為其和薬。勣頓首見血,泣以陳謝。太宗曰:「吾為社稷計耳,不煩深謝。」十七年,高宗居春宮,転太子詹事,加特進,仍知政事。太宗又嘗宴,顧勣曰:「朕将属以孤幼,思之無越卿者。公往不遺於李密,今豈負於朕哉!」勣雪涕致辞,因噬指流血。俄沈酔,御服覆之,其見委信如此。勣毎行軍,用師籌算,臨敵応変,動合事機。自貞観以来,討撃突厥、頡利及薛延陀、高麗等,並大破之。太宗嘗曰:「李靖、李勣二人,古之韓、白,衛、霍豈能及也。」
書き下し
李勣(りせき)は、曹州離狐の人なり。本姓は徐。初め李密に仕え、左武侯大将軍と為る。密は後に王世充の破る所と為る。衆を擁して国に帰す。勣は猶お密の旧境十郡の地に拠る。武徳二年、長史郭孝恪に謂いて曰く、「魏公(李密)既に大唐に帰す。今、此の人衆土地は、魏公の有する所なり。吾若し表を上りて之を献ぜば、則ち是れ主の敗を利とし、自ら己が功と為して、以て富貴を邀(もと)むるなり。是れ吾が恥ずる所なり。今、宜しく具(つぶさ)に州県及び軍人戸口を録し、総べて魏公に啓し、公の自ら献ずるに聴(まか)すべし。此れ則ち魏公の功なり。亦た可ならずや」と。乃ち使いを遣わして密に啓す。使人初めて至るに、高祖は表無く、惟だ啓の密に与うる有るを聞き、甚だ之を怪しむ。使者は勣の意を以て聞奏す。高祖方(はじ)めて大いに喜びて曰く、「徐勣は徳に感じて功を推す。実に純臣なり」と。黎州総管に拝し、姓を李氏と賜い、属籍を宗正に附す。其の父蓋を封じて済陰王と為す。固く王爵を辞す。乃ち舒国公に封じ、散騎常侍を授く。尋いで勣に右武侯大将軍を加う。李密反叛して伏誅せらるるに及び、勣は喪を発し服を行い、君臣の礼を備え、表して収葬せんことを請う。高祖遂に其の屍を帰す。是に於いて大いに威儀を具え、三軍縞素(こうそ)し、黎陽山に葬る。礼成りて、服を釈(と)きて散ず。朝野之を義とす。尋いで竇建徳の攻むる所と為り、建徳に陥る。又た自ら抜けて京師に帰る。太宗に従いて王世充・竇建徳を征し、之を平らぐ。貞観元年、并州都督に拝せらる。令行われ禁止まる。称職と号せらる。突厥は甚だ畏憚(いたん)を加う。太宗侍臣に謂いて曰く、「隋の煬帝は賢良を精選して辺境を鎮撫するを解せず。惟だ遠く長城を築き、広く将士を屯して、以て突厥に備う。而して情識の惑い、一に此に至る。朕は今、李勣を并州に委任す。遂に突厥をして威を畏れて遠く遁れしむるを得たり。塞垣安静なり。豈に数千里の長城に勝らずや」と。其の後、并州は改めて大都督府を置く。又た勣を以て長史と為し、累ねて英国公に封ず。并州に在ること凡そ十六年。召して兵部尚書に拝し、兼ねて政事を知らしむ。勣は時に暴疾に遇う。験方に云く、須(ひげ)の灰は以て之を療すべしと。太宗自ら須を剪(き)りて其の為に薬に和す。勣は頓首して血を見(あら)わし、泣きて以て陳謝す。太宗曰く、「吾は社稷の為に計るのみ。深く謝するを煩わさず」と。十七年、高宗春宮に居る。太子詹事に転じ、特進を加え、仍お政事を知らしむ。太宗又た嘗て宴し、勣を顧みて曰く、「朕は将に属するに孤幼を以てせんとす。之を思うに卿に越ゆる者無し。公は往(さき)に李密を遺(す)てず。今、豈に朕に負(そむ)かんや」と。勣は涕を雪(ぬぐ)いて辞を致し、因りて指を噬(か)みて血を流す。俄かに沈酔す。御服を以て之を覆う。其の委信せらるること此くの如し。勣は行軍する毎に、師を用うるに籌算(ちゅうさん)し、敵に臨みて変に応じ、動けば事機に合す。貞観より以来、突厥・頡利及び薛延陀(せつえんだ)・高麗等を討撃し、並びに大いに之を破る。太宗嘗て曰く、「李靖・李勣の二人は、古の韓(信)・白(起)なり。衛(青)・霍(去病)豈に能く及ばんや」と。
現代語訳
李勣は、曹州離狐の人である。もとの姓は徐。初め李密に仕え、左武侯大将軍となった。李密は後に王世充に破れ、軍勢を率いて唐に帰順した。李勣はなお李密の旧領十郡の地を保っていた。武徳二年、長史の郭孝恪に言った。「魏公(李密)はすでに唐に帰順された。今、この人民と土地は、魏公のものだ。もし私が上表して献上すれば、それは主君の敗北を利用して自分の功績とし、富貴を求めることになる。それは私の恥とするところだ。今は州県と軍人の戸籍を詳しく記録し、すべて魏公に報告し、公が自ら献上されるのに任せるべきだ。そうすれば、これは魏公の功績となる。それでよいではないか」。そこで使者を送って李密に報告した。使者が着いた時、高祖は上表がなく、李密宛の書状だけがあると聞いて、大いに怪しんだ。使者が李勣の意図を奏上すると、高祖は初めて大いに喜んで言った。「徐勣は恩に感じて功を人に譲る。まことの純臣だ」。黎州総管に任じ、李の姓を賜り、皇族の籍に加えた。その父の蓋を済陰王に封じたが、固く王爵を辞退したので、舒国公に封じ、散騎常侍を授けた。まもなく李勣に右武侯大将軍を加えた。李密が反逆して誅殺されると、李勣は喪を発して服し、君臣の礼を尽くし、上表して遺体を引き取って葬りたいと願い出た。高祖はその屍を返した。そこで盛大な儀礼を整え、三軍が白い喪服を着て、黎陽山に葬った。礼が終わると喪服を脱いで散った。朝廷も民間も、これを義とした。まもなく竇建徳に攻められて捕らえられたが、自ら脱出して長安に帰った。太宗に従って王世充と竇建徳を征伐し、平定した。貞観元年、并州都督に任じられた。命令はよく行われ、禁令はよく守られ、適任と評された。突厥は大いに彼を恐れた。太宗は側近に言った。「隋の煬帝は、優れた人材を選んで辺境を鎮めることを知らなかった。ただ遠くに長城を築き、広く兵を駐屯させて突厥に備えた。その見識の迷いは、ここに極まる。私は今、李勣を并州に任せた。それで突厥は威を畏れて遠くへ逃げた。国境は静かだ。数千里の長城に勝るではないか」。その後、并州は大都督府に改められ、李勣を長史とし、英国公に封じた。并州にいること十六年。召して兵部尚書とし、政事を兼ね知らせた。李勣が急病にかかった。処方に「髭の灰が効く」とあった。太宗は自ら髭を切って、彼のために薬に混ぜた。李勣は頭を地に打ちつけて血を流し、泣いて謝した。太宗は言った。「私は国家のために計ったまでだ。深く謝するには及ばない」。十七年、高宗が東宮にいた頃、太子詹事に転じ、特進を加え、なお政事を知らせた。太宗はある宴で、李勣を顧みて言った。「私は幼い後継ぎを託そうと思う。考えてみて、あなたに勝る者はいない。あなたはかつて李密を見捨てなかった。今、どうして私に背こうか」。李勣は涙を拭って言葉を尽くし、指を噛んで血を流した。まもなく泥酔した。太宗は自分の服をかけてやった。信頼されることが、これほどであった。李勣は行軍のたびに計算を尽くし、敵に臨んで変化に応じ、動けば必ず好機に合った。貞観以来、突厥や頡利、薛延陀、高句麗などを討ち、みな大いに破った。太宗はかつて言った。「李靖と李勣の二人は、古の韓信と白起である。衛青や霍去病でも及ばない」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
貞観政要・任賢李靖は、京兆三原の人なり。大業の末、馬邑郡丞と為る。曾(かつ)て高祖太原留守と為るや、靖は高祖を観察し、四方の志有るを知る。因りて自ら鎖して変を上(たてまつ)らんとし、江都に詣(いた)る。長安に至るも、道塞がりて通ぜずして止む。高祖京城を克し、靖を執えて、将に之を斬らんとす。靖大呼して曰く、「公は義兵を起こして暴乱を除く。大事に就くを欲せずして、私怨を以て壮士を斬らんとするか」と。太宗も亦た靖を救うを加う。高祖遂に之を舎(ゆる)す。武徳中、蕭銑(しょうせん)・輔公祏(ほこうせき)を平らぐる功を以て、歴遷して揚州大都督府長史と為る。太宗位を嗣ぎ、召して刑部尚書に拝す。貞観二年、本官を以て中書令を検校す。三年、兵部尚書に転じ、代州行軍総管と為り、進みて突厥の定襄城を撃ち、之を破る。突厥の諸部落は倶に磧北(せきほく)に走る。北のかた隋の斉王暕(かん)の子楊道政、及び煬帝の蕭后を擒(とら)え、長安に送る。突利可汗来降し、頡利(けつり)可汗は僅かに身を以て遁(のが)る。太宗謂いて曰く、「昔、李陵は歩卒五千を提(ひっさ)げ、身を匈奴に降すを免れず。尚お名を竹帛に書するを得たり。卿は三千の軽騎を以て、深く虜庭に入り、克く定襄を復し、威は北狄に振(ふる)う。実に古今未だ有らず。往年渭水の役に報ゆるに足る」と。功を以て進みて代国公に封ぜらる。此の後、頡利可汗は大いに懼れ、四年、退きて鉄山を保つ。使いを遣わして入朝謝罪し、国を挙げて内附せんことを請う。又た靖を以て定襄道行軍総管と為し、往きて頡利を迎えしむ。頡利は外は降を請うと雖も、心は疑弐を懐く。詔して鴻臚卿唐倹、摂戸部尚書将軍安修仁を遣わして之を慰諭す。靖は副将張公謹に謂いて曰く、「詔使彼に到れば、虜は必ず自ら寛(ゆる)まん。乃ち精騎を選び二十日の糧を賫(もた)らし、兵を引きて白道より之を襲わん」と。公謹曰く、「既に其の降を許し、詔使彼に在り。未だ討撃するに宜しからず」と。靖曰く、「此れ兵機なり。時は失うべからず」と。遂に軍を督して疾く進む。行きて陰山に至り、其の斥候千余帳に遇う。皆な俘(とりこ)にして以て軍に随わしむ。頡利は使者を見て甚だ悦び、官兵の至るを虞(おもんばか)らず。靖の前鋒は霧に乗じて行き、其の牙帳を去ること七里。頡利始めて覚る。兵を列ぬるも未だ陣を成すに及ばず、単馬にて軽く走る。虜衆因りて潰散す。斬ること万余級、其の妻隋の義成公主を殺し、男女十余万を俘とす。土界を斥(ひろ)むること陰山より大漠に至る。遂に其の国を滅ぼす。尋いで頡利可汗を別の部落に獲、余衆悉く降る。太宗大いに悦び、顧みて侍臣に謂いて曰く、「朕聞く、主憂うれば臣辱められ、主辱められれば臣死す、と。往者、国家草創し、突厥強梁なり。太上皇は百姓の故を以て、臣と頡利に称す。朕未だ嘗て心を痛め首を疾(や)ましめ、匈奴を滅ぼさんことを志し、坐しては席に安んぜず、食らいては味を甘しとせずんばあらず。今者、暫く偏師を動かし、往くとして捷(か)たざる無し。単于(ぜんう)は顙(ひたい)を稽(ぬか)ず。恥は其れ雪がれたり」と。群臣皆な万歳を称す。尋いで靖を光禄大夫・尚書右僕射に拝し、実封五百戸を賜う。又た西海道行軍大総管と為し、吐谷渾(とよくこん)を征し、大いに其の国を破る。改めて衛国公に封ぜらる。靖の身亡ぶるに及び、詔有りて墳塋の制度は漢の衛・霍の故事に依るを許し、闕を築きて突厥内の燕然山、吐谷渾内の積石の二山に象(かたど)り、以て殊績を旌(あら)わす。
-
貞観政要・任賢杜如晦は、京兆万年の人なり。武徳の初め、秦王府兵曹参軍と為り、俄(にわ)かに陝州総管府長史に遷る。時に府中に英俊多く、外に遷さるる者衆し。太宗之を患う。記室房玄齢曰く、「府僚の去る者多しと雖も、蓋し惜しむに足らず。杜如晦は聡明識達、王佐の才なり。若し大王藩を守りて端拱せば、之を用うる所無し。必ず四方を経営せんと欲せば、此の人に非ざれば可なる莫し」と。太宗此より弥ます礼重を加え、寄するに心腹を以てす。遂に奏して府属と為し、常に帷幄に参謀せしむ。時に軍国事多く、剖断すること流るるが如し。深く時輩の服する所と為る。累ねて天策府従事中郎、兼ねて文学館学士を除せらる。隠太子の敗るるや、如晦と玄齢と功第一なり。遷りて太子右庶子に拝せらる。俄かに兵部尚書に遷り、進みて蔡国公に封ぜられ、実封一千三百戸。貞観二年、本官を以て侍中を検校す。三年、尚書右僕射に拝せられ、兼ねて吏部の選事を知る。仍お房玄齢と共に朝政を掌る。台閣の規模、典章文物に至りては、皆な二人の定むる所なり。甚だ当時の誉れを獲、時に房・杜と称せらる。
-
『長短経』覇図隋の高祖、姓は楊氏、名は堅。周の武帝の初め、隋州刺史と為り、女は太子妃と為る。周の宣帝立ち、拝して大司馬と為す。宣帝崩じ、靖帝を立て、爵を進めて隋王と為す。遂に位を禅る。号を改めて九年、陳を平らぐ。太子勇を廃して庶人と為し、晋王広を立てて皇太子と為す。高祖崩じ、太子即位す。〈是を煬帝と為す。〉煬帝、無道にして、盗賊蜂起す。十三年、江都に幸す。李密、壇を鞏に設け、自ら署して魏公と為す。〈密は遼東の人、蒲山公寛の子なり。少くして倜儻にして大志有り。常に乱を思うの心有り。楊玄感と刎頸の交わりを為す。玄感、勢いを以て之を凌ぐ。密怒りて曰く「機を両陣の間に決し、喑啞叱咤して三軍を披靡せしめ、功を一時に邀うるは、密、公に如かず。若し彼の長途を渉り、賢俊を駆策して、各々其の用を申べしむるは、公、密に如かず。豈に一階一級を以て天下の士大夫を軽んず可けんや」と。玄感の反するに及び、密、之に帰し、其の謀主と為る。後、玄感敗れ、密、姓名を変じて、翟譲に奔る。譲、密を立てて魏公と為す。幕府を開き、僚属を置く。九十余万人有り。〉
-
貞観政要・任賢魏徴は、鉅鹿(きょろく)の人なり。近ごろ家を相州の内黄に徙(うつ)す。武徳の末、太子洗馬(せんば)と為る。太宗と隠太子と陰かに相い傾奪するを見て、毎に建成に勧めて早く之が謀を為さしむ。太宗既に隠太子を誅し、徴を召して之を責めて曰く、「汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや」と。衆皆な之が為に危懼す。徴、慷慨自若として、従容として対えて曰く、「皇太子若し臣の言に従わば、必ず今日の禍無からん」と。太宗之が為に容を斂(おさ)め、厚く礼異を加え、擢(ぬきん)でて諫議大夫に拝す。数々之を臥内に引き、訪うに政術を以てす。徴は雅(もと)より経国の才有り、性又た抗直にして、屈撓する所無し。太宗毎に之と言い、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦た知己の主に逢うを喜び、其の力用を竭くす。又た之を労いて曰く、「卿の諫むる所、前後二百余事、皆な朕が意に称(かな)う。卿の忠誠もて国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是くの若くならんや」と。三年、累遷して秘書監となり、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂いて曰く、「卿の罪は鉤に中(あ)つるより重く、我の卿に任ずるは管仲に逾(こ)ゆ。近代の君臣相い得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや」と。六年、太宗九成宮に幸し、近臣を宴す。長孫無忌曰く、「王珪・魏徴は、往(さき)に息隠に事う。臣之を見ること讎(あだ)の若し。謂わざりき、今者(いま)又た此の宴を同じくせんとは」と。太宗曰く、「魏徴は往者(さき)には実に我が讎とする所なり。但だ其の心を事うる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用う。何ぞ古烈に慚じんや。徴は毎に顔を犯して切諫し、我の非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり」と。徴再拝して曰く、「陛下、臣を導きて言わしむ。臣の敢えて言う所以なり。若し陛下臣の言を受けずんば、臣も亦た何ぞ敢えて龍鱗を犯し、忌諱に触れんや」と。太宗大いに悦び、各々銭十五万を賜う。七年、王珪に代わりて侍中と為り、累ねて鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職とする所を辞せんことを乞い、散官と為らんことを請う。太宗曰く、「朕は卿を讎虜の中より抜き、卿に任ずるに枢要の職を以てす。朕の非を見れば、未だ嘗て諫めずんばあらず。公独り見ずや、金の鉱に在るは、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛えて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕は方(まさ)に自ら金に比し、卿を以て良工と為す。疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾(しか)るを得んや」と。徴乃ち止む。後に復た固辞す。侍中を解くを聴(ゆる)し、授くるに特進を以てし、仍お門下省の事を知らしむ。十二年、太宗、皇孫の誕(う)まるるを以て、詔して公卿を宴す。帝極めて歓び、侍臣に謂いて曰く、「貞観以前、我に従いて天下を平定し、艱険に周旋するは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし、忠讜(ちゅうとう)を献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、惟だ魏徴のみ。古の名臣も、何を以て加えんや」と。是に於いて親ら佩刀を解きて以て二人に賜う。庶人承乾は春宮に在りて、徳業を修めず。魏王泰は寵愛日に隆く、内外の庶寮、咸な疑議有り。太宗聞きて之を悪(にく)み、侍臣に謂いて曰く、「当今の朝臣、忠謇(ちゅうけん)は魏徴に如くは無し。我遣わして皇太子に傅たらしめ、用て天下の望みを絶たん」と。十七年、遂に太子太師を授け、門下の事を知ること故の如し。徴自ら疾有るを陳ぶ。太宗謂いて曰く、「太子は宗社の本なり。須らく師傅有るべし。故に中正を選びて、以て輔弼と為す。公の疹病を知る。臥して之を護るべし」と。徴乃ち職に就く。尋いで疾に遇う。徴の宅内には先に正堂無し。太宗時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟(や)めて為に造らしめ、五日にして就る。中使を遣わして賜うに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親ら臨みて慟哭し、司空を贈り、謚して文貞と曰う。太宗親ら為に碑文を制し、復た自ら石に書す。特に其の家に食実封九百戸を賜う。太宗後に嘗て侍臣に謂いて曰く、「夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正すべし。古を以て鏡と為せば、以て興替を知るべし。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにすべし。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ。今、魏徴殂逝(そせい)し、遂に一鏡を亡えり」と。因りて泣下すること之を久しくす。乃ち詔して曰く、「昔惟だ魏徴のみ、毎に予が過ちを顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰わるる莫し。朕豈に独り往時に非有りて、皆な茲の日に是ならんや。故に亦た庶僚苟(いやしく)も順い、龍鱗に触れ難き者か。所以に己を虚しくして外に求め、迷いを披きて内に省みる。言いて用いざるは、朕の甘心する所なり。用いて言わざるは、誰の責ぞや。今より已後、各々乃(なんじ)の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠す無かれ」と。
-
李衛公問対・卷中此れ蓋し先づ人情の本(もと)悪を為すに非ざるを料る、豈に予(あらかじ)め慮らざらんや。臣頃(このごろ)突厥を討ち、蕃漢の衆を総べ、塞を出づること千里、未だ嘗て一揚干を戮し、一荘賈を斬らず、亦た赤誠を推し、至公を存するのみ。陛下過聴し、臣を擢(ぬき)んずるに不次の位を以てす。若し文武に於いては、則ち何ぞ敢へて当たらん。」太宗曰く、「昔唐倹突厥に使ひし、卿因りて撃ちて之を敗る。人言ふ、卿倹を以て死間と為すと。朕今に至るまで疑ふ。如何。」靖再拝して曰く、「臣と倹とは肩を比(なら)べて主に事(つか)ふ。倹の説必ず柔服すること能はざるを料る。故に臣因りて兵を縦(はな)ちて之を撃つ。大悪を去りて、小義を顧みざる所以なり。人倹を以て死間と為すと謂ふは、臣の心に非ず。『孫子』の〈用間〉を案ずるに、最も下策と為す。臣嘗て論を著して其の末に云ふ、
-
貞観政要・忠義貞観五年、太宗侍臣に謂いて曰く、「忠臣烈士、何の代か之れ無からん。公等、隋朝の誰か忠貞たるを知るか」と。王珪曰く、「臣聞く、太常丞元善達、京に在りて留守す。群賊の縦横するを見て、遂に騎を転じて遠く江都に詣り、煬帝を諫め、京師に還らしめんとす。既に其の言を受けず。後に更に涕泣して極諫す。煬帝怒りて、乃ち遠く使わして兵を追わしむ。身は瘴癘の地に死す。虎賁郎中独孤盛有り。江都に在りて宿衛す。宇文化及逆を起こす。盛は惟だ一身のみ。抗拒して死す」と。太宗曰く、「屈突通は隋の将と為り、国家と潼関に戦う。京城の陥るを聞き、乃ち兵を引きて東に走る。義兵、桃林に追及す。朕は其の家人を遣わして往きて招慰せしむ。遽かに其の奴を殺す。又た其の子を遣わして往かしむ。乃ち云う、『我は隋家の駆使を蒙り、已に両帝に事う。今は吾が死節の秋なり。汝は旧は我が家に於て父子と為るも、今は則ち我が家に於て仇讎と為る』と。因りて之を射る。其の子避け走る。領する所の士卒多く潰散す。通は惟だ一身のみ。東南に向かいて慟哭し哀を尽くす。曰く、『臣は国恩を荷(にな)い、任は将帥に当たる。智力倶に尽き、此の敗亡を致す。臣が誠を国に竭くさざるに非ず』と。言尽きて、追兵之を擒(とら)う。太上皇其の官を授くるも、毎に疾に託して固辞す。此の忠節、嘉尚するに足るべし」と。因りて所司に敕し、大業中の直諫して誅せられし者の子孫を采訪し、聞奏せしむ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る