貞観政要 / 任賢
李靖,京兆三原人也。大業末,為馬邑郡丞。曾高祖為太原留守,靖觀察高祖,知有四方之誌,因自鎖上變,詣江都。至長安,道塞不通而止。高祖克京城,執靖,將斬之,靖大呼曰:「公起義兵除暴亂,不欲就大事,而以私怨斬壯士乎?」太宗亦加救靖,高祖遂舍之。武德中,以平蕭銑、輔公祏功,歷遷揚州大都督府長史。太宗嗣位,召拜刑部尚書。貞觀二年,以本官檢校中書令。三年,轉兵部尚書,為代州行軍總管,進擊突厥定襄城,破之。突厥諸部落俱走磧北。北擒隋齊王暕之子楊道政,及煬帝蕭後,送於長安,突利可汗來降,頡利可汗僅以身遁。太宗謂曰:「昔李陵提步卒五千,不免身降匈奴,尚得名書竹帛。卿以三千輕騎,深入虜庭,克復定襄,威振北狄,實古今未有,足報往年渭水之役矣。」以功進封代國公。此後,頡利可汗大懼,四年,退保鐵山,遣使入朝謝罪,請舉國內附。又以靖為定襄道行軍總管,往迎頡利。頡利雖外請降,而心懷疑貳。詔遣鴻臚卿唐儉、攝戶部尚書將軍安修仁慰諭之,靖謂副將張公謹曰:「詔使到彼,虜必自寬,乃選精騎賫二十日糧,引兵自白道襲之。」公謹曰:「既許其降,詔使在彼,未宜討擊。」靖曰:「此兵機也,時不可失。」遂督軍疾進。行至陰山,遇其斥候千餘帳,皆俘以隨軍。頡利見使者甚悅,不虞官兵至也。靖前鋒乘霧而行,去其牙帳七里,頡利始覺,列兵未及成陣,單馬輕走,虜眾因而潰散。斬萬餘級,殺其妻隋義成公主,俘男女十餘萬,斥土界自陰山至於大漠,遂滅其國。尋獲頡利可汗於別部落,餘眾悉降。太宗大悅,顧謂侍臣曰:「朕聞主憂臣辱,主辱臣死。往者國家草創,突厥強梁,太上皇以百姓之故,稱臣於頡利,朕未嘗不痛心疾首,誌滅匈奴,坐不安席,食不甘味。今者暫動偏師,無往不捷,單於稽顙,恥其雪乎!」群臣皆稱萬歲。尋拜靖光祿大夫、尚書右僕射,賜實封五百戶。又為西海道行軍大總管,征吐谷渾,大破其國。改封衛國公。及靖身亡,有詔許墳塋制度依漢衛、霍故事,築闕象突厥內燕然山、吐谷渾內積石二山,以旌殊績。
新字:李靖,京兆三原人也。大業末,為馬邑郡丞。曽高祖為太原留守,靖観察高祖,知有四方之誌,因自鎖上変,詣江都。至長安,道塞不通而止。高祖克京城,執靖,将斬之,靖大呼曰:「公起義兵除暴乱,不欲就大事,而以私怨斬壮士乎?」太宗亦加救靖,高祖遂舎之。武徳中,以平蕭銑、輔公祏功,歴遷揚州大都督府長史。太宗嗣位,召拝刑部尚書。貞観二年,以本官検校中書令。三年,転兵部尚書,為代州行軍総管,進擊突厥定襄城,破之。突厥諸部落俱走磧北。北擒隋斉王暕之子楊道政,及煬帝蕭後,送於長安,突利可汗来降,頡利可汗僅以身遁。太宗謂曰:「昔李陵提歩卒五千,不免身降匈奴,尚得名書竹帛。卿以三千輕騎,深入虜庭,克復定襄,威振北狄,実古今未有,足報往年渭水之役矣。」以功進封代国公。此後,頡利可汗大懼,四年,退保鉄山,遣使入朝謝罪,請舉国內附。又以靖為定襄道行軍総管,往迎頡利。頡利雖外請降,而心懐疑貳。詔遣鴻臚卿唐倹、摂戶部尚書将軍安修仁慰諭之,靖謂副将張公謹曰:「詔使到彼,虜必自寛,乃選精騎賫二十日糧,引兵自白道襲之。」公謹曰:「既許其降,詔使在彼,未宜討擊。」靖曰:「此兵機也,時不可失。」遂督軍疾進。行至陰山,遇其斥候千余帳,皆俘以随軍。頡利見使者甚悅,不虞官兵至也。靖前鋒乗霧而行,去其牙帳七里,頡利始覺,列兵未及成陣,単馬輕走,虜眾因而潰散。斬万余級,殺其妻隋義成公主,俘男女十余万,斥土界自陰山至於大漠,遂滅其国。尋獲頡利可汗於別部落,余眾悉降。太宗大悅,顧謂侍臣曰:「朕聞主憂臣辱,主辱臣死。往者国家草創,突厥強梁,太上皇以百姓之故,稱臣於頡利,朕未嘗不痛心疾首,誌滅匈奴,坐不安席,食不甘味。今者暫動偏師,無往不捷,単於稽顙,恥其雪乎!」群臣皆稱万歲。尋拝靖光祿大夫、尚書右僕射,賜実封五百戶。又為西海道行軍大総管,征吐谷渾,大破其国。改封衛国公。及靖身亡,有詔許墳塋制度依漢衛、霍故事,築闕象突厥內燕然山、吐谷渾內積石二山,以旌殊績。
書き下し
李靖は、京兆三原の人なり。大業の末、馬邑郡丞と為る。曾(かつ)て高祖太原留守と為るや、靖は高祖を観察し、四方の志有るを知る。因りて自ら鎖して変を上(たてまつ)らんとし、江都に詣(いた)る。長安に至るも、道塞がりて通ぜずして止む。高祖京城を克し、靖を執えて、将に之を斬らんとす。靖大呼して曰く、「公は義兵を起こして暴乱を除く。大事に就くを欲せずして、私怨を以て壮士を斬らんとするか」と。太宗も亦た靖を救うを加う。高祖遂に之を舎(ゆる)す。武徳中、蕭銑(しょうせん)・輔公祏(ほこうせき)を平らぐる功を以て、歴遷して揚州大都督府長史と為る。太宗位を嗣ぎ、召して刑部尚書に拝す。貞観二年、本官を以て中書令を検校す。三年、兵部尚書に転じ、代州行軍総管と為り、進みて突厥の定襄城を撃ち、之を破る。突厥の諸部落は倶に磧北(せきほく)に走る。北のかた隋の斉王暕(かん)の子楊道政、及び煬帝の蕭后を擒(とら)え、長安に送る。突利可汗来降し、頡利(けつり)可汗は僅かに身を以て遁(のが)る。太宗謂いて曰く、「昔、李陵は歩卒五千を提(ひっさ)げ、身を匈奴に降すを免れず。尚お名を竹帛に書するを得たり。卿は三千の軽騎を以て、深く虜庭に入り、克く定襄を復し、威は北狄に振(ふる)う。実に古今未だ有らず。往年渭水の役に報ゆるに足る」と。功を以て進みて代国公に封ぜらる。此の後、頡利可汗は大いに懼れ、四年、退きて鉄山を保つ。使いを遣わして入朝謝罪し、国を挙げて内附せんことを請う。又た靖を以て定襄道行軍総管と為し、往きて頡利を迎えしむ。頡利は外は降を請うと雖も、心は疑弐を懐く。詔して鴻臚卿唐倹、摂戸部尚書将軍安修仁を遣わして之を慰諭す。靖は副将張公謹に謂いて曰く、「詔使彼に到れば、虜は必ず自ら寛(ゆる)まん。乃ち精騎を選び二十日の糧を賫(もた)らし、兵を引きて白道より之を襲わん」と。公謹曰く、「既に其の降を許し、詔使彼に在り。未だ討撃するに宜しからず」と。靖曰く、「此れ兵機なり。時は失うべからず」と。遂に軍を督して疾く進む。行きて陰山に至り、其の斥候千余帳に遇う。皆な俘(とりこ)にして以て軍に随わしむ。頡利は使者を見て甚だ悦び、官兵の至るを虞(おもんばか)らず。靖の前鋒は霧に乗じて行き、其の牙帳を去ること七里。頡利始めて覚る。兵を列ぬるも未だ陣を成すに及ばず、単馬にて軽く走る。虜衆因りて潰散す。斬ること万余級、其の妻隋の義成公主を殺し、男女十余万を俘とす。土界を斥(ひろ)むること陰山より大漠に至る。遂に其の国を滅ぼす。尋いで頡利可汗を別の部落に獲、余衆悉く降る。太宗大いに悦び、顧みて侍臣に謂いて曰く、「朕聞く、主憂うれば臣辱められ、主辱められれば臣死す、と。往者、国家草創し、突厥強梁なり。太上皇は百姓の故を以て、臣と頡利に称す。朕未だ嘗て心を痛め首を疾(や)ましめ、匈奴を滅ぼさんことを志し、坐しては席に安んぜず、食らいては味を甘しとせずんばあらず。今者、暫く偏師を動かし、往くとして捷(か)たざる無し。単于(ぜんう)は顙(ひたい)を稽(ぬか)ず。恥は其れ雪がれたり」と。群臣皆な万歳を称す。尋いで靖を光禄大夫・尚書右僕射に拝し、実封五百戸を賜う。又た西海道行軍大総管と為し、吐谷渾(とよくこん)を征し、大いに其の国を破る。改めて衛国公に封ぜらる。靖の身亡ぶるに及び、詔有りて墳塋の制度は漢の衛・霍の故事に依るを許し、闕を築きて突厥内の燕然山、吐谷渾内の積石の二山に象(かたど)り、以て殊績を旌(あら)わす。
現代語訳
李靖は、京兆三原の人である。大業の末、馬邑郡丞であった。かつて高祖が太原留守であった時、李靖は高祖を観察し、天下を狙う志があると見抜いた。そこで自ら身を縛って謀反を訴え出ようとし、江都へ向かった。長安まで来たが、道が塞がって通れず、断念した。高祖が長安を落とすと、李靖を捕らえて斬ろうとした。李靖は大声で叫んだ。「あなたは義兵を起こして暴乱を除こうとしているのに、大事を成そうとせず、私怨で壮士を斬るのですか」。太宗も李靖を救おうとした。高祖はそこで彼を許した。武徳年間、蕭銑や輔公祏を平定した功で、揚州大都督府長史となった。太宗が即位すると、召して刑部尚書とした。貞観二年、本官のまま中書令を兼ねた。三年、兵部尚書に転じ、代州行軍総管となり、突厥の定襄城を攻めて破った。突厥の諸部落はみな砂漠の北へ逃げた。北で隋の斉王暕の子・楊道政と煬帝の蕭后を捕らえ、長安に送った。突利可汗が降伏し、頡利可汗はかろうじて身一つで逃れた。太宗は言った。「昔、李陵は歩兵五千を率いて、匈奴に降伏することを免れなかった。それでも名は竹簡や絹に記された。あなたは三千の軽騎で敵地深くに入り、定襄を回復し、威は北方の異民族に轟いた。まことに古今にないことだ。往年の渭水の屈辱を晴らすに足る」。功によって代国公に封じられた。この後、頡利可汗は大いに恐れ、四年、退いて鉄山に立てこもった。使者を送って謝罪し、国を挙げて服属したいと願い出た。太宗はまた李靖を定襄道行軍総管とし、頡利を迎えに行かせた。頡利は表向き降伏を請いながら、内心では二心を抱いていた。詔して鴻臚卿の唐倹と、戸部尚書代行の将軍・安修仁を遣わして慰撫させた。李靖は副将の張公謹に言った。「詔使が向こうに着けば、敵は必ず気を緩める。そこで精鋭の騎兵を選び、二十日分の糧食を持たせ、白道から襲撃しよう」。公謹は言った。「すでに降伏を許し、詔使が向こうにいます。討つべきではありません」。李靖は言った。「これは戦機だ。時を逃してはならない」。そして軍を率いて急進した。陰山まで来て、敵の斥候千余の天幕に遭遇した。みな捕らえて軍に従わせた。頡利は使者を見て大いに喜び、官軍が来るとは思いもしなかった。李靖の前鋒は霧に乗じて進み、本営まで七里に迫った。頡利はそこで初めて気づいた。兵を並べても陣形が整わず、馬一頭で身軽に逃げた。敵軍はそのまま潰走した。斬ること一万余、頡利の妻である隋の義成公主を殺し、男女十余万を捕虜とした。領土は陰山から大砂漠まで広がった。ついにその国を滅ぼした。まもなく頡利可汗を別の部落で捕らえ、残りの兵もみな降伏した。太宗は大いに喜び、側近に言った。「私はこう聞いている。主君が憂えれば臣は辱められ、主君が辱められれば臣は死ぬ、と。かつて国家が創業したばかりの頃、突厥は強大だった。太上皇は民のために、頡利に臣下として称した。私は心を痛め、頭を悩ませ、匈奴を滅ぼすことを志し、座っても席に落ち着かず、食べても味が分からなかった。今、わずかな軍を動かしただけで、行くところ勝たないことがない。単于は額を地につけた。恥は雪がれた」。群臣はみな万歳を叫んだ。まもなく李靖を光禄大夫・尚書右僕射に任じ、実封五百戸を賜った。また西海道行軍大総管として吐谷渾を征伐し、大いに破った。改めて衛国公に封じられた。李靖が亡くなると、詔して墓の制度を漢の衛青・霍去病の例に倣うことを許し、闕を築いて突厥の燕然山と吐谷渾の積石山の二山に象り、その特別な功績を顕彰した。