貞観政要 / 政体
貞觀十九年,太宗謂侍臣曰:「朕觀古來帝王,驕矜而取敗者,不可勝數。不能遠述古昔,至如晉武平吳、隋文伐陳已後,心逾驕奢,自矜諸己,臣下不復敢言,政道因茲弛紊。朕自平定突厥、破高麗已後,兼並鐵勒,席卷沙漠以為州縣,夷狄遠服,聲教益廣。朕恐懷驕矜,恒自抑折,日旰而食,坐以待晨。每思臣下有讜言直諫,可以施於政教者,當拭目以師友待之。如此,庶幾於時康道泰爾。」
新字:貞観十九年,太宗謂侍臣曰:「朕観古来帝王,驕矜而取敗者,不可勝数。不能遠述古昔,至如晋武平呉、隋文伐陳已後,心逾驕奢,自矜諸己,臣下不復敢言,政道因茲弛紊。朕自平定突厥、破高麗已後,兼並鉄勒,席巻沙漠以為州県,夷狄遠服,声教益広。朕恐懐驕矜,恒自抑折,日旰而食,坐以待晨。毎思臣下有讜言直諫,可以施於政教者,当拭目以師友待之。如此,庶幾於時康道泰爾。」
書き下し
貞観十九年、太宗侍臣に謂いて曰く、「朕、古来の帝王を観るに、驕矜(きょうきょう)にして敗を取る者は、勝(あ)げて数うべからず。遠く古昔を述ぶる能わず。晋の武の呉を平らげ、隋の文の陳を伐ちて已後の如きに至りては、心は逾(いよい)よ驕奢にして、自ら諸己(もろもろ)を矜(ほこ)る。臣下は復た敢えて言わず。政道は茲(これ)に因りて弛紊(しびん)す。朕、突厥を平定し、高麗を破りて已後、兼ねて鉄勒(てつろく)を并(あわ)せ、沙漠を席巻して以て州県と為す。夷狄は遠く服し、声教は益ます広し。朕は驕矜を懐かんことを恐れ、恒に自ら抑折し、日旰(く)れて食し、坐して以て晨(あした)を待つ。毎に臣下に讜言(とうげん)直諫の、以て政教に施すべき者有るを思い、当に目を拭いて師友を以て之を待つべし。此の如くんば、時康く道泰(やす)きに庶幾(ちか)からんのみ」と。
現代語訳
貞観十九年、太宗が側近の臣に言った。「私が古来の帝王を見るに、驕り高ぶって失敗した者は数え切れない。遠い昔のことは語りきれないが、晋の武帝が呉を平定し、隋の文帝が陳を討った後を見ると、心はますます驕り奢り、自分を誇るようになった。臣下はもはや、あえて何も言わなくなる。政治の道は、これによって緩み乱れた。私は突厥を平定し、高句麗を破って以来、鉄勒も併合し、沙漠を席巻して州県とした。異民族は遠くまで服属し、教化は広く及んでいる。私は驕りを抱くことを恐れ、常に自らを抑え折り、日が暮れてから食事をとり、座ったまま朝を待つ。いつも臣下の中に、正しい言葉で直言し、政治に活かせる者がいることを思い、目を見開いて、師や友として迎えるべきだと考えている。そうすれば、時は安らかに、道は泰らかになることに近づけるだろう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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貞観政要・求諫貞観八年、太宗侍臣に謂いて曰く、「朕は閒居静坐する毎に、則ち自ら内省す。恒に恐る、上は天心に称わず、下は百姓の怨む所と為らんことを。但だ正人の匡諫を思い、耳目をして外に通じ、下に怨滞無からしめんと欲す。又た比(このごろ)人の来たりて事を奏する者を見るに、多く怖懾(ふしょう)有り、言語は次第を失うに致る。尋常の奏事すら、情なお此くの如し。況んや諫諍せんと欲せば、必ず当に逆鱗を犯すを畏るべし。所以に諫むる者有る毎に、縦(たと)い朕の心に合わずとも、朕も亦た以て忤(さか)らうと為さず。若し即ち嗔責(しんせき)せば、深く恐る、人は戦懼を懐き、豈に肯えて更に言わんや」と。
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貞観政要・貢賦貞観十二年、疏勒・朱倶波・甘棠、使を遣わして方物を貢す。太宗群臣に謂いて曰く、「向(さき)に中国をして安からざらしめば、日南・西域の朝貢の使も亦た何に縁りてか至らん。朕は何の徳ありて以て之に堪えんや。此を睹(み)て翻って危懼を懐く。近代、天下を平一し、辺方を拓定する者は、惟だ秦皇・漢武のみ。始皇は暴虐、子に至りて亡ぶ。漢武は驕奢、国祚は幾(ほとん)ど絶ゆ。朕は三尺の剣を提げて以て四海を定む。遠夷は率服し、億兆は乂安(がいあん)す。自ら謂えらく、二主に減ぜずと。然れども二主の末途は、皆な自ら保つ能わず。是に由りて毎に自ら危亡を懼れ、必ず敢えて懈怠せず。惟だ公等の直言正諫に藉りて、以て相い匡弼せんことのみ。若し惟だ美を揚げ悪を隠し、共に諛言を進めば、則ち国の危亡は、立ちどころに待つべきなり」と。
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貞観政要・君臣鑑戒貞観十四年、太宗高昌の平らぐを以て、侍臣を召して宴を両儀殿に賜う。房玄齢に謂いて曰く、「高昌若し臣礼を失わずんば、豈に滅亡に至らんや。朕は此の一国を平らぐるも、甚だ危懼を懐く。惟だ当に驕逸を戒めて以て自ら防ぎ、忠謇を納れて以て自ら正すべし。邪佞を黜(しりぞ)け、賢良を用う。小人の言を以て君子を議せず。此を以て慎み守らば、庶幾(ちか)くは安きを獲んか」と。魏徴進みて曰く、「臣、古来の帝王の乱を撥(おさ)め業を創むるを観るに、必ず自ら戒慎し、芻蕘の議を采り、忠讜の言に従う。天下既に安んずれば、則ち情を恣にし欲を肆にし、諂諛を甘楽し、正諫を聞くを悪む。張子房は漢王の計画の臣なり。高祖の天子と為るに及び、将に嫡を廃して庶を立てんとす。子房曰く、『今日の事は、口舌の能く争う所に非ざるなり』と。終に敢えて復た開説する有らず。況んや陛下の功徳の盛んなる、漢祖を以て之に方(くら)ぶれば、彼は準と為すに足らず。位に即きて十有五年、聖徳光被し、今又た高昌を平殄す。屢々安危を以て意に系(か)け、方に忠良を納用し、直言の路を開かんと欲す。天下幸甚なり。昔、斉の桓公は管仲・鮑叔牙・寧戚の四人と飲む。桓公叔牙に謂いて曰く、『盍(なん)ぞ起ちて寡人の為に寿せざる』と。叔牙は觴を奉じて起ちて曰く、『願わくは公は莒に出でし時を忘るる無かれ。管仲をして魯に束縛せられし時を忘るる無からしめよ。寧戚をして牛に飯(か)いて車下にありし時を忘るる無からしめよ』と。桓公席を避けて謝して曰く、『寡人と二大夫と、能く夫子の言を忘るる無くんば、則ち社稷危うからじ』と」と。太宗徴に謂いて曰く、「朕は必ず敢えて布衣の時を忘れず。公も叔牙の人と為りを忘るるを得ざれ」と。
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貞観政要・求諫太宗の威容は儼粛(げんしゅく)なり。百僚の進見する者、皆な其の挙措を失う。太宗其の此くの若きを知り、人の事を奏するを見る毎に、必ず顔色を假(か)し、諫諍を聞き、政教の得失を知らんことを冀(こいねが)う。貞観の初め、嘗て公卿に謂いて曰く、「人自ら照らさんと欲せば、必ず明鏡を須(もち)う。主過ちを知らんと欲せば、必ず忠臣に藉(よ)る。主若し自ら賢とし、臣匡正せずんば、危敗せざらんと欲するも、豈に得べけんや。故に君其の国を失えば、臣も亦た独り其の家を全うする能わず。隋の煬帝の暴虐に至りては、臣下は口を鉗(と)ざす。卒(つい)に其の過ちを聞かざらしめ、遂に滅亡に至る。虞世基等も、尋いで亦た誅死せり。前事遠からず。公等、事の人に不利なる有るを看る毎に、必ず須らく極言して規諫すべし」と。
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貞観政要・君臣鑑戒貞観三年、太宗侍臣に謂いて曰く、「君臣は本と治乱を同じくし、安危を共にす。若し主は忠諫を納れ、臣は直言を進めば、斯れ故に君臣は契を合わす。古来重んずる所なり。若し君自ら賢とし、臣匡正せずんば、危亡せざらんと欲するも、得べからざるなり。君其の国を失えば、臣も亦た独り其の家を全うする能わず。隋の煬帝の暴虐に至るが如きは、臣下は口を鉗ざす。卒に其の過ちを聞かざらしめ、遂に滅亡に至る。虞世基等も尋いで亦た誅死せり。前事遠からず。朕と卿等と、慎まざるを得べけんや。後の嗤う所と為る無かれ」と。
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