神皇正統記 / 巻一 網の一目
されど、此道のひろまるべき事は内外典流布の力なりと云つべし。魚をうることは網の一目によるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。応神天皇の御代より儒書をひろめられ、聖徳太子の御時より、釈教をさかりにし給し、是皆権化の神聖にましませば、天照太神の御心をうけて我国の道をひろめふかくし給なるべし。
書き下し
されど、此道のひろまるべき事は内外典流布の力なりと云つべし。魚をうることは網の一目によるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。応神天皇の御代より儒書をひろめられ、聖徳太子の御時より、釈教をさかりにし給し、是皆権化の神聖にましませば、天照太神の御心をうけて我国の道をひろめふかくし給なるべし。
現代語訳
とはいえ、この道が広まったのは仏典と儒書が世に行きわたった力によると言うべきだ。魚を捕るのは網の一つの目によるのだが、多くの目の力がなければ捕ることは難しいのと同じである。応神天皇の御代から儒書が広められ、聖徳太子の御時から仏教が盛んになったのは、いずれも神仏の化身である聖人が、天照大神の御心を受けてわが国の道を広め深くされたのであろう。
解説
前章で「内外典の学問もこゝにきはまる」と言った直後に、その内外典こそが道を広めたのだと言い添える。神道を説く書が、儒書と仏典の功績を正面から認めているところが重要である。比喩が的確だ。「魚をうることは網の一目によるなれど、衆目の力なければ是をうることかたき」——魚がかかるのは網のたった一つの目である。しかし他の目がなければ網は成り立たず、魚は捕れない。決定的な一点は確かにあるが、それを支える広がりがなければ働かない。核心と周辺の関係を、これほど短く言い当てた比喩は少ない。一芸に集中すべきか広く学ぶべきかという問いに、両方だと答えるのではなく、広さがあってはじめて一点が効くという順序で答えている。
この章句が説くこと
網の一目儒書と釈教核心と周辺応神・聖徳太子
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさまさていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又ようように、かの仏ごころをまじうるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭えるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説く趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなわず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みずから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。かくして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたわで、天理陰陽など云う説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立ちいでては、高天の原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐい、すべてかように、おのが私の心をもて、さまざまに説き曲ぐる事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みずからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならいぞかし。
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