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法句経 / 第十八 塵垢の部 二五二・二五三

二五二 他の過失は見易けれど自の(過失は)見難し、他の過失は穅秕の如く簸颺すれど、自の(過失)は狡猾なる博徒が不利の骰子の目を隱すが如くす。 二五三 人若し他人の過失を覔め、常に輕侮すれば彼の心穢増長す、心穢盡を去ること遠し。

新字:二五二 他の過失は見易けれど自の(過失は)見難し、他の過失は穅秕の如く簸颺すれど、自の(過失)は狡猾なる博徒が不利の骰子の目を隠すが如くす。 二五三 人若し他人の過失を覔め、常に軽侮すれば彼の心穢増長す、心穢尽を去ること遠し。

書き下し

二五二 他の過失は見易けれど自の(過失は)見難し、他の過失は穅秕の如く簸颺すれど、自の(過失)は狡猾なる博徒が不利の骰子の目を隠すが如くす。 二五三 人若し他人の過失を覔め、常に軽侮すれば彼の心穢増長す、心穢尽を去ること遠し。

現代語訳

他人の過失は見やすいが、自分の過失は見にくい。他人の過失は籾殻のようにふるい飛ばすのに、自分の過失は、狡猾な博打打ちが不利な賽の目を隠すように隠す。人がもし他人の過失をあら探しし、常に軽んじ侮るなら、その人の心の汚れは増える。心の汚れが尽きるところから遠ざかる。

解説

二五二の後半の比喩が容赦ない。他人の過失は籾殻を風で飛ばすように軽々と選り分けるのに、自分の過失は、いかさま博打打ちが自分に不利な賽の目を隠すように隠す。ここで使われているのは「見えない」ではなく「隠す」という言葉である。気づいていないのではなく、気づいたうえで手品のように伏せている、という指摘だ。二五三はその帰結を述べる。他人の過失を探し続けると、心の汚れが増える。探している当人の側が汚れるという因果になっている。他人の欠点を見つける能力は、たいてい自分の欠点を見る能力とは別に育つ。しかも前者が育つほど、後者から遠ざかると言っている。

この章句が説くこと

他の過失は見易し簸颺博徒が骰子の目を隠す心穢の増長

この一句を、あなたの毎日に。

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