法句経 / 第八 千の部 一一〇〜一一二
一一〇 若し人壽百歳なるも惡戒散動なれば、一日生きて具戒靜慮するに若かず。 一一一 若し人壽百歳なるも惡慧散動なれば、一日生きて具慧靜慮するに若かず。 一一二 若し人壽百歳なるも懈怠怯弱なれば、一日生きて勇猛努力堅固なるに若かず。
新字:一一〇 若し人寿百歳なるも悪戒散動なれば、一日生きて具戒静慮するに若かず。 一一一 若し人寿百歳なるも悪慧散動なれば、一日生きて具慧静慮するに若かず。 一一二 若し人寿百歳なるも懈怠怯弱なれば、一日生きて勇猛努力堅固なるに若かず。
書き下し
一一〇 若し人寿百歳なるも悪戒散動なれば、一日生きて具戒静慮するに若かず。 一一一 若し人寿百歳なるも悪慧散動なれば、一日生きて具慧静慮するに若かず。 一一二 若し人寿百歳なるも懈怠怯弱なれば、一日生きて勇猛努力堅固なるに若かず。
現代語訳
たとえ寿命が百歳あっても、戒を破り心が散り乱れているなら、一日生きて戒を保ち心を静めるのに及ばない。たとえ寿命が百歳あっても、智慧が悪く心が散り乱れているなら、一日生きて智慧を保ち心を静めるのに及ばない。たとえ寿命が百歳あっても、怠り弱いなら、一日生きて勇猛に努力し堅固であるのに及ばない。
解説
「若し人壽百歳なるも」で始まる一連の偈が六つ続くうちの三つ。百年と一日を、繰り返し天秤にかける。百年を否定しているのではない。百年あっても中身が空なら、中身のある一日に及ばないと言う。時間の長さは、価値の単位にならないという主張である。ここで対比されているのが「散動」——心が散り乱れていること、である点に注意したい。悪事を働いた百年ではなく、気が散ったままの百年が問題にされている。悪いことをしていないのに空しく過ぎる時間、というのは誰にとっても身に覚えがあるだろう。第二章の不放逸が、ここでは時間の量という尺度への反論として現れている。
この章句が説くこと
寿百歳一日生きて散動時間の長さ
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