法句経 / 第五 愚闇の部 六〇〜六二
六〇 寢ねざる人には夜長く、疲れたる人には路長く、正法を知らざる凡愚には生死長し。 六一 道を行きて、己より勝れたる人又は己に等しき人に逢はずんば寧ろ獨り行きて誤らざれ、愚者の伴侶とすべきなし。 六二 「我が子なり、我が財なり」と思惟して凡愚は苦しみ惱む、我の我已にあることなし、誰の子ぞ誰の財ぞ。
新字:六〇 寝ねざる人には夜長く、疲れたる人には路長く、正法を知らざる凡愚には生死長し。 六一 道を行きて、己より勝れたる人又は己に等しき人に逢はずんば寧ろ独り行きて誤らざれ、愚者の伴侶とすべきなし。 六二 「我が子なり、我が財なり」と思惟して凡愚は苦しみ悩む、我の我已にあることなし、誰の子ぞ誰の財ぞ。
書き下し
六〇 寝ねざる人には夜長く、疲れたる人には路長く、正法を知らざる凡愚には生死長し。 六一 道を行きて、己より勝れたる人又は己に等しき人に逢はずんば寧ろ独り行きて誤らざれ、愚者の伴侶とすべきなし。 六二 「我が子なり、我が財なり」と思惟して凡愚は苦しみ悩む、我の我已にあることなし、誰の子ぞ誰の財ぞ。
現代語訳
眠らない人には夜が長く、疲れた人には道が長く、正しい法を知らない愚かな者には生死が長い。「我が子である、我が財である」と思いめぐらして愚かな者は苦しみ悩む。自分すら自分のものではないのだから、誰の子であろう、誰の財であろう。
解説
六〇は経験の側から入る。眠れない夜は長い。疲れた足には道が長い。誰でも知っているこの二つに、三つめとして「正法を知らない者には生死が長い」を並べる。長さは時計で決まらず、状態で決まるという話である。六二はもっと踏みこむ。「我が子なり、我が財なり」という思いこそが苦しみの源だという。理由が徹底している。「我の我已にあることなし」——自分自身ですら自分の所有物ではない。ならば子も財も所有ではありえない。この論は冷たく響くが、裏返せば、失うことを恐れて苦しむ構造そのものを外そうとしている。所有をやめよという話ではなく、もともと所有していないと見よという話である。
この章句が説くこと
夜長く道長し我が子我が財我の我にあることなし所有