法句経 / 第一 双叙の部 一九・二〇
一九 經文を誦むこと多しと雖も、此を行はざる放逸の人は、他人の牛を數ふる牧者の如く、宗教家の列に入らず。 二〇 經文を誦むこと少なしと雖も、法を遵行し、貪瞋癡を棄て、知識正當に、心全く解脱し、此世他世ともに執著することなき、彼は宗教家の列に入る。
新字:一九 経文を誦むこと多しと雖も、此を行はざる放逸の人は、他人の牛を数ふる牧者の如く、宗教家の列に入らず。 二〇 経文を誦むこと少なしと雖も、法を遵行し、貪瞋痴を棄て、知識正当に、心全く解脱し、此世他世ともに執著することなき、彼は宗教家の列に入る。
書き下し
一九 経文を誦むこと多しと雖も、此を行はざる放逸の人は、他人の牛を数ふる牧者の如く、宗教家の列に入らず。 二〇 経文を誦むこと少なしと雖も、法を遵行し、貪瞋癡を棄て、知識正当に、心全く解脱し、此世他世ともに執著することなき、彼は宗教家の列に入る。
現代語訳
経文を誦むことが多くても、これを行わない怠りの人は、他人の牛を数える牧人のようなもので、宗教者の列には入らない。経文を誦むことは少なくても、法に従って行い、貪りと怒りと迷いを捨て、知識が正しく、心が完全に解脱し、この世にもあの世にも執着することのない人、その人は宗教者の列に入る。
解説
「他人の牛を數ふる牧者」——雇われた牧人が他人の牛を数える。数はよく知っているが、一頭も自分のものではない。知識と実践の関係を、これ以上ないほど的確に突いた比喩である。誦む量ではなく、行うかどうかで線が引かれる。しかも二〇では、逆の条件が具体的に並ぶ。誦むことは少なくても、法に従って行い、貪瞋癡を捨て、正しく知り、執着しない。要求水準は決して低くない。量を減らせと言っているのではなく、量は基準にならないと言っているのである。読んだ本の数、受けた研修の数、覚えた用語の数。数えられるものほど、他人の牛でありやすい。
この章句が説くこと
他人の牛を数うる牧者知と行誦むこと宗教家の列
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