秘本玉くしげ / 下 刑はゆるく
刑は隨分ゆるく輕きがよき也。但し、生ておきてはたえず世に害をなすべき者などは、ころすもよき也。さて、一人にても人をころすは甚重き事にて、大抵の事なれば死刑には行はれぬ定まりなるは、まことに有がたき御事也。然るに近來は、決してころすまじき者をも、其事の吟味のむつかしき筋などあれば、毒藥などを用ひて病死として、その吟味をすます事なども世には有とか、うけ玉はる。いともいとも有まじきこと也。又、盜賊火つけなどを吟味する時、覺えなき者も拷問せられて、苦痛の甚しきに得たえずして、僞て吾也と白狀する事あるを、白狀だにすれば眞僞をばさのみたださず、其者を犯人として其刑に行ふやうの類もあるとか。是又甚あるまじき事也。刑法の定まりは宜しくても、其法を守るとして却て輕輕しく人をころす事あり。よくよくつつしむべし。
新字:刑は随分ゆるく軽きがよき也。但し、生ておきてはたえず世に害をなすべき者などは、ころすもよき也。さて、一人にても人をころすは甚重き事にて、大抵の事なれば死刑には行はれぬ定まりなるは、まことに有がたき御事也。然るに近来は、決してころすまじき者をも、其事の吟味のむつかしき筋などあれば、毒薬などを用ひて病死として、その吟味をすます事なども世には有とか、うけ玉はる。いともいとも有まじきこと也。又、盗賊火つけなどを吟味する時、覚えなき者も拷問せられて、苦痛の甚しきに得たえずして、偽て吾也と白状する事あるを、白状だにすれば真偽をばさのみたださず、其者を犯人として其刑に行ふやうの類もあるとか。是又甚あるまじき事也。刑法の定まりは宜しくても、其法を守るとして却て軽軽しく人をころす事あり。よくよくつつしむべし。
書き下し
刑は随分ゆるく軽きがよき也。但し、生ておきてはたえず世に害をなすべき者などは、ころすもよき也。さて、一人にても人をころすは甚重き事にて、大抵の事なれば死刑には行はれぬ定まりなるは、まことに有がたき御事也。然るに近来は、決してころすまじき者をも、其事の吟味のむつかしき筋などあれば、毒薬などを用ひて病死として、その吟味をすます事なども世には有とか、うけ玉はる。いともいとも有まじきこと也。又、盗賊火つけなどを吟味する時、覚えなき者も拷問せられて、苦痛の甚しきに得たえずして、偽て吾也と白状する事あるを、白状だにすれば真偽をばさのみたださず、其者を犯人として其刑に行ふやうの類もあるとか。是又甚あるまじき事也。刑法の定まりは宜しくても、其法を守るとして却て軽軽しく人をころす事あり。よくよくつつしむべし。
現代語訳
刑罰はできるかぎり緩く軽いのがよい。ただし、生かしておいては絶えず世に害をなすような者などは、殺すのもよい。さて、一人でも人を殺すことは甚だ重いことで、たいていの事なら死刑にはしないという定めであるのは、まことにありがたい御事である。それなのに近ごろは、決して殺してはならない者をも、その事件の取り調べに難しい筋などがあれば、毒薬などを用いて病死として、その取り調べを済ませることなども世にはあるとか、うかがっている。まことにあってはならないことである。また、盗賊や放火などを取り調べるとき、身に覚えのない者も拷問されて、苦痛の甚だしさに堪えられず、偽って自分だと白状することがあるのを、白状さえすれば真偽をさほど問いただすことなく、その者を犯人としてその刑に処するような類もあるとか。これもまた甚だあってはならないことである。刑法の定めはよくても、その法を守るとして、かえって軽々しく人を殺すことがある。よくよく慎むべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『秘本玉くしげ』下 法の名ばかりたとひ少々法にははづるることありとも、とかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし。さて又異国にては、怒りにまかせてはみだりに死刑に行ひ、貴人といへども会釈もなく厳刑におこなふならひなるに、本朝にては重き人はそれだけに刑をもゆるく当らるるは、これ又ありがたき御事也。何事にても先規よりの法を守るといふは、天下一同の事にてまことによろしきこと也。然れども近来は、これを守るといふはただ名ばかりにて、実は大にくづれて、其法の本意にも背ける事のみ多し。又法は法と立おきて、其法をよけてさはらぬやうに悪事をなす者甚多きを、ただ法だに立ば、いかほど悪事をなす者有てもとがめざる事あり。たとへば関所をこゆればかなはざる者も、ぬけ道をして通ればとがむる事なく、其関をさへ越ざれば見のがすやうのことあり。万の事に此類おほし。
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『秘本玉くしげ』上 偽の張本人さて、その張本人といふものも、近来はただ仮にまうけたる者にて、実の張本にはあらず。その仮の者といふは、かねて此事をおこす始めより相対にて、かりにこれを張本人といふ者にたてて、後に刑に行はるべき覚悟にて定めおく故に、これを刑しても何の益もなく、あたら罪もなき民をころすは、あはれむべき事也。上にも、かりのものといふ事はしりながら、ただ定法だに立ばよきことにして済す也。近来はすべて、かやうの軽薄無実の刑多きは、甚あるまじき事也。たとひ我張本也と名乗出る者あり共、よくよくその実否を吟味して、疑はしくば、実の張本人の出るまでは、そのにせものを刑すべきにあらず。草の根を分ても、まことの張本を尋ぬべき事也。
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『秘本玉くしげ』上 役人も重く罰すさればたとひいささかの事にもせよ、此すぢあらば、その起るところの本を委細によくよく吟味して是非をただし、下の非あらば、その張本のともがらをおもく刑し玉ふべきは勿論の事、又上に非あらば、その非を行へる役人を重く罰し玉ふべき也。
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『秘本玉くしげ』下 訴訟は早く公事訴訟願ひ事御咎め筋などの類、早く済してもよきことは、随分なるべきだけ早く済すべき也。なほざりにして、一日もすておくべきにあらず。下にては惣じて、上へかかりたるすぢの事は、いささかの事にても相済までは甚心労する事にて、殊に貧しき者などは家業にも障り、甚迷惑する事なるに、上にかまふ事なければとて、なほざりにすて置て長引するは、いと心なき事也。
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『秘本玉くしげ』下 過ちを咎めずとかく御政務につきては、御前へ出たる人、あまりに憚り恐れず、何事もうちくつろぎては料簡を申上るやうにし、軽き役人をも近く召れて、心やすく何事をも申上るやうにあらまほしきもの也。惣体新法の事を立て行ふに、思ひかけず間違あやまちなどあれば、最初に其事を申出して始めたる者の越度として、これを咎むることなれども、最初より悪しかれとて始めたることにあらず。思ひかけざるあやまちは是非なければ、其者をとがむべき事にはあらず。惣じてかやうの取はからひも、あまり上の事をおもおもしくするから、あたらぬ事もある也。さて武士の風儀として、上へ対して申訳なき事などあるとき切腹するは、まことにいさぎよくはあれ共、よろしからぬならはしなり。実に死なでかなはぬ事は格別なれども、其余さしての悪事にもあらず、ただいささかの一時のあやまちによりて、大切なる一命をうしなひ、父母妻子の歎きも殊に深かるべきをおもへば、甚いとをしき事也。
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『秘本玉くしげ』下 私の切腹を禁ず願はくは此ならひをば停めまほしき事なれば、御先代に天下一同に追腹殉死を禁ぜられたる如く、此切腹の事も、上より仰付らるるの外は、私に切腹する事をば堅く禁止せらるべき也。誰とても一時のあやまち、思ひはからぬ不調法は、あるまじきにあらざれば、さのみ深く咎むべきにもあらず、いささかの事にて一命をすつるには及ぶまじきこと也。すべて少しの事にても品によりて切腹するならひは、もと戦国の風也。さて又、上の事をあまりおもおもしく取扱ふならひなる故、すこしの不調法をしても身のたたぬやうに思ふから也。惣じて何事によらず、主君へ対してただいささかの不調法ありても重くとがむるならひなれ共、其すぢによりて、大かた心より外にあやまりてせる事は、大抵の事は宥免せらるべき也。かやうの事を至て厳重にするも一つの法にてはあれども、今の世のならひを見れば、あまり厳に過たることも多き也。
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