秘本玉くしげ / 上 偽の張本人
さて、その張本人といふものも、近來はただ假にまうけたる者にて、實の張本にはあらず。その假の者といふは、かねて此事をおこす始めより相對にて、かりにこれを張本人といふ者にたてて、後に刑に行はるべき覺悟にて定めおく故に、これを刑しても何の益もなく、あたら罪もなき民をころすは、あはれむべき事也。上にも、かりのものといふ事はしりながら、ただ定法だに立ばよきことにして濟す也。近來はすべて、かやうの輕薄無實の刑多きは、甚あるまじき事也。たとひ我張本也と名乘出る者あり共、よくよくその實否を吟味して、疑はしくば、實の張本人の出るまでは、そのにせものを刑すべきにあらず。草の根を分ても、まことの張本を尋ぬべき事也。
新字:さて、その張本人といふものも、近来はただ仮にまうけたる者にて、実の張本にはあらず。その仮の者といふは、かねて此事をおこす始めより相対にて、かりにこれを張本人といふ者にたてて、後に刑に行はるべき覚悟にて定めおく故に、これを刑しても何の益もなく、あたら罪もなき民をころすは、あはれむべき事也。上にも、かりのものといふ事はしりながら、ただ定法だに立ばよきことにして済す也。近来はすべて、かやうの軽薄無実の刑多きは、甚あるまじき事也。たとひ我張本也と名乗出る者あり共、よくよくその実否を吟味して、疑はしくば、実の張本人の出るまでは、そのにせものを刑すべきにあらず。草の根を分ても、まことの張本を尋ぬべき事也。
書き下し
さて、その張本人といふものも、近来はただ仮にまうけたる者にて、実の張本にはあらず。その仮の者といふは、かねて此事をおこす始めより相対にて、かりにこれを張本人といふ者にたてて、後に刑に行はるべき覚悟にて定めおく故に、これを刑しても何の益もなく、あたら罪もなき民をころすは、あはれむべき事也。上にも、かりのものといふ事はしりながら、ただ定法だに立ばよきことにして済す也。近来はすべて、かやうの軽薄無実の刑多きは、甚あるまじき事也。たとひ我張本也と名乗出る者あり共、よくよくその実否を吟味して、疑はしくば、実の張本人の出るまでは、そのにせものを刑すべきにあらず。草の根を分ても、まことの張本を尋ぬべき事也。
現代語訳
さて、その首謀者というものも、近ごろはただ仮に仕立てた者であって、本当の首謀者ではない。その仮の者というのは、かねてこの騒動を起こす初めから話し合いのうえで、仮にこれを首謀者という者に立て、後に処刑されることを覚悟して決めておくのである。だからこれを処刑しても何の益もなく、あたら罪もない民を殺すのは、憐れむべきことである。上でも、仮の者だということを知りながら、ただ定法さえ立てばよいこととして済ませている。近ごろはすべて、このような軽薄で実のない刑が多いのは、甚だあってはならないことである。たとえ「自分が首謀者だ」と名乗り出る者があっても、よくよくその真偽を吟味して、疑わしければ、本当の首謀者が出るまでは、その偽者を処刑すべきではない。草の根を分けてでも、本当の首謀者を尋ねるべきことである。
解説
この章句が説くこと
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『秘本玉くしげ』上 恥辱と思わぬ上たとひいかほど困窮はしても、上のはからひだによろしければ、此事は起るものにあらず。然るに近年は、ここにもかしこにも多きによりて、めづらしからぬ事になりて、まづ一旦静まればよき事にして、さのみ跡の吟味もくはしからず、張本人を一両人とらへて定まりのとほり刑に行へば、そのむきにて、跡の上の取計らひをたしなみ改むる事もせず、世間に例多ければ、さのみ恥辱とも思はれぬやうの所もありとぞ。
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『秘本玉くしげ』上 役人も重く罰すさればたとひいささかの事にもせよ、此すぢあらば、その起るところの本を委細によくよく吟味して是非をただし、下の非あらば、その張本のともがらをおもく刑し玉ふべきは勿論の事、又上に非あらば、その非を行へる役人を重く罰し玉ふべき也。
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『秘本玉くしげ』上 一揆は上の非抑、此事の起るを考るに、後にいづれも下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしくなりたりとはいへども、よくよく堪がたきにいたらざれば、此事はおこるものにあらず。たとひ起さんと思ふ者ありとても、村村一致することはかたく、又悪党者ありてこれをすすめありきても、かやうの事を一同にひそかに申合す事はもれやすきものなれば、中中大抵の事にては一致はしがたかるべし。然るに近年、此事の所所に多きは、他国の例を聞ていよいよ百姓の心も動き、又役人の取はからひもいよいよ非なること多く、困窮も甚しきが故に、一致しやすきなるべし。然れ共また、近来世上に此事多きに付ては、何れの国も上にもつねづねその心がけおこたらず、起しがたきやうのかねての防ぎもあることなれば、下はいよいよ一致しがたく、起しがたき道理也。上のかねての防ぎは、隠すべき事にあらざればいかやうにも議しやすく、表向にてとりはからふ事なれば行ひやすく、またたとひ下へ隠してはからふ事も、上はもとより一致なればいかやうにもなる事なるに、下のかやうの事を起さんとするは、上へ隠して至て密密に談合すべき事にて、殊に世間ひろければ、かならず中途にて漏れ顕はるべき道理なるに、近年たやすく一致し固まりて、此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず。上たる人、深く遠慮をめぐらさるべきなり。然りとて、いかほど起らぬやうのかねての防ぎ工夫をなす共、末を防ぐばかりにては止がたかるべし。とかく、その因て起る本を直さずばあるべからず。その本を直すといふは、非理のはからひをやめて民をいたはる是也。
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『秘本玉くしげ』上 厳しくすればまづ下は、高が百姓町人の事にて、その願ふ所を聞とどけだにすれば宜しく、又たとひ真坂に及びても、武具などもそろはず、戦の法などもしらぬ者なれば、畢竟は恐るるにはたらぬ事のやうなれども、もし上より用捨なくきびしくこれをふせがば、下よりもまたいよいよ用捨なく、身命をすててかかる事もあらん。其時、たとひ武士一人は百姓町人の三人五人づつに当るほどの働きありとも、つひに多勢に及びがたからん事もはかりがたく、又たとひいかやうの計略をめぐらして十分勝をとる共、敵とするところみな自分の民なれば、一人にてもそこなふときは、畢竟は自分の損也。又、手にあまれるとき、近国などより加勢ありて人数を出されては、たとひ早速静まりても、いよいよ耻辱の至り也。但しさしあたりては、手ごはきときはやむ事を得ず、少少人を損じてなりとも、まづ早く静むるやうにはからはん事、もとより然るべき事也。又、後来を恐れしめんためにも、一旦は武威を以てきびしく押へ静むるも権道也。然れども、始終は武威ばかりにては押へがたし。此方よりきびしくあしらふは、以後又かの方よりも、いよいよきびしくかかれと教ふるやうの道理なれば也。然れば此事は、とにかくにその因て起る本をつつしむ事肝要たるべし。
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『秘本玉くしげ』下 刑はゆるく刑は随分ゆるく軽きがよき也。但し、生ておきてはたえず世に害をなすべき者などは、ころすもよき也。さて、一人にても人をころすは甚重き事にて、大抵の事なれば死刑には行はれぬ定まりなるは、まことに有がたき御事也。然るに近来は、決してころすまじき者をも、其事の吟味のむつかしき筋などあれば、毒薬などを用ひて病死として、その吟味をすます事なども世には有とか、うけ玉はる。いともいとも有まじきこと也。又、盗賊火つけなどを吟味する時、覚えなき者も拷問せられて、苦痛の甚しきに得たえずして、偽て吾也と白状する事あるを、白状だにすれば真偽をばさのみたださず、其者を犯人として其刑に行ふやうの類もあるとか。是又甚あるまじき事也。刑法の定まりは宜しくても、其法を守るとして却て軽軽しく人をころす事あり。よくよくつつしむべし。
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『秘本玉くしげ』下 法の名ばかりたとひ少々法にははづるることありとも、とかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし。さて又異国にては、怒りにまかせてはみだりに死刑に行ひ、貴人といへども会釈もなく厳刑におこなふならひなるに、本朝にては重き人はそれだけに刑をもゆるく当らるるは、これ又ありがたき御事也。何事にても先規よりの法を守るといふは、天下一同の事にてまことによろしきこと也。然れども近来は、これを守るといふはただ名ばかりにて、実は大にくづれて、其法の本意にも背ける事のみ多し。又法は法と立おきて、其法をよけてさはらぬやうに悪事をなす者甚多きを、ただ法だに立ば、いかほど悪事をなす者有てもとがめざる事あり。たとへば関所をこゆればかなはざる者も、ぬけ道をして通ればとがむる事なく、其関をさへ越ざれば見のがすやうのことあり。万の事に此類おほし。
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