呉子 / 応変篇
吳子曰:「凡攻敵圍城之道,城邑既破,各入其宮。御其祿秩,收其器物。軍之所至,無刊其木、發其屋、取其粟、殺其六畜、燔其積聚,示民無殘心。其有請降,許而安之。」
新字:呉子曰:「凡攻敵囲城之道,城邑既破,各入其宮。御其禄秩,収其器物。軍之所至,無刊其木、発其屋、取其粟、殺其六畜、燔其積聚,示民無残心。其有請降,許而安之。」
書き下し
呉子曰く、凡そ敵を攻め城を囲むの道は、城邑既に破れなば、各々其の宮に入る。其の禄秩を御し、其の器物を収む。軍の至る所、其の木を刊ること、其の屋を発くこと、其の粟を取ること、其の六畜を殺すこと、其の積聚を燔くこと無く、民に残なう心無きを示す。其の降を請う有らば、許して之を安んず、と。
現代語訳
呉子は言う。およそ敵を攻め城を囲むときのやり方はこうである。城市を陥落させたなら、それぞれの役所に入り、その俸禄の制度を引き継いで管理し、備品を接収する。軍が入った先では、樹木を切り倒したり、家屋を壊したり、穀物を奪ったり、家畜を殺したり、蓄えを焼き払ったりしてはならない。そうすることで、民衆に対して害を加える心がないことを示すのである。降伏を願い出る者があれば、これを許して安心させてやるのだ。
解説
応変篇の最後は、勝った後の振る舞いについてです。城を落とした後、木を切るな、家を壊すな、穀物を奪うな、家畜を殺すな、蓄えを焼くな。そして降伏を申し出る者は受け入れて安心させよ、と説きます。なぜか。「民に残なう心無きを示す」——そこに住む人々に、こちらに害意がないことを示すためです。勝利は、相手を叩き潰すことではなく、その後もその土地と人が成り立ち続けることを含めて成り立つ。この一段は、暴力の抑制がむしろ実利にかなうという冷静な認識に立っています。破壊し尽くせば、その後に残るのは恨みと荒地だけです。現代の組織にも当てはまります。合併や統合、部署の再編、交渉で優位に立った場面。相手を屈服させることに満足して、そこにいる人の尊厳や生活を壊してしまえば、後に残るのは動かない組織と失われた信頼です。勝ち方には、その後を左右する責任が伴う。優位に立ったときこそ、どう振る舞うかが問われます。
この章句が説くこと
勝った後の振る舞い破壊の抑制降伏を受け入れる統合の作法心理戦
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