言志四録 / 南洲手抄
不知而知者、道心也。知而不知者、人心也。
書き下し
知らずして知る者は、道心なり。知つて知らざる者は、人心なり。
現代語訳
知ろうとしないのに自然に知っている、これが「道心(天から与えられた本来の心)」である。知っているのに(本当には)知らない、これが「人心(欲にとらわれた心)」である。
解説
「道心」と「人心」を、知の在り方で対比した一条です。学ぼうと構えなくても、おのずと正しさが分かっている——これは天から与えられた本来の良心(道心)のはたらき。一方、頭では知っているのに、それが行動に生きず本当には分かっていない——これは欲や私心に曇った心(人心)の状態です。三十七番「知って未だ知らず」とも通じます。人には、生まれつき善悪を感じ取る澄んだ心と、欲に曇って知識が空回りする心の両面がある。理屈より先に働く良心の声を信じ、それを曇らせないこと。知識偏重になりがちな私たちに、本来の直感的な良知の大切さを示す一条です。
この章句が説くこと
道心と人心良知良心知行
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言志四録・南洲手抄誣ふ可らざる者は人情なり、欺く可らざる者は天理なり、人皆之を知る。蓋し知つて而して未だ知らず。
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