言志四録 / 南洲手抄
有心於無心、工夫是也。無心於有心、本體是也。
新字:有心於無心、工夫是也。無心於有心、本体是也。
書き下し
心無きに心有るは、工夫是なり。心有るに心無きは、本体是なり。
現代語訳
無心であろうとするところに(意識して)心をはたらかせる、これが「工夫(修養の努力)」である。心をはたらかせながら、そこに無心である(作為がない)、これが「本体(本来の境地)」である。
解説
「工夫(努力の段階)」と「本体(到達の境地)」の違いを、心の在り方で説いた一条です。無心になろうと意識して努める段階が「工夫」。それが熟して、心を働かせながらもそこに力みや作為がない自然な段階が「本体」。四十八番「無為而有為之謂誠」とも一続きで、努力して整える段階から、努力の跡が消えた自然な境地への道筋を示します。修養とは、意識的な努力(工夫)を積み重ねた末に、それが板について無意識の自然(本体)になること。習慣化や熟達の本質を、心の観点から言い当てた一条です。今の自分が「工夫」の段階か「本体」の段階かを、静かに測らせてくれます。
この章句が説くこと
工夫と本体無心熟達自然
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