言志四録 / 南洲手抄
以眞己克假己、天理也。以身我害心我、人欲也。
新字:以真己克仮己、天理也。以身我害心我、人欲也。
書き下し
真己を以て仮己に克つ、天理なり。身我を以て心我を害す、人欲なり。
現代語訳
真の自己によって仮の自己に打ち克つ、これが天の理(正しい道)である。肉体の自己によって心の自己を損なう、これが人の欲(私欲)である。
解説
十番の「真己・仮己」を、克己の指針として展開した一条です。本来の自己(真己・心我)で、欲や体面にとらわれた仮の自己(仮己・身我)に打ち克つ——これが天理にかなった生き方。逆に、肉体的な欲望(身我)に引きずられて本来の心(心我)を損なう——これが私欲に落ちた生き方です。同じ自分の中に、天理へ向かう自己と人欲へ落ちる自己が同居している。どちらが主導権を握るかで、生き方が分かれる。孔子の「克己」を、二つの自己のせめぎ合いとして描いたこの構図は、意志と欲望の葛藤に日々直面する私たちに、明快な自己統御の地図を与えてくれます。
この章句が説くこと
真己と仮己克己天理と人欲自己統御
関連する章句
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言志四録・南洲手抄本然の真己有り、躯殻の仮己有り。須らく自ら認め得んことを要すべし。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、天理と人道との差別(しゃべつ)を、能(よ)く弁別する人少し。夫(そ)れ人身(じんしん)あれば欲あるは則(すなわ)ち天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ。堤は崩れ堀は埋(うづ)まり橋は朽(く)る、是(これ)則ち天理なり。然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草をさるを道とし、堤は築立(つきた)て、堀はさらひ、橋は掛替(かけか)ふるを以て道とす。此(か)くの如く、天理と人道とは格別の物なるが故に、天理は万古(ばんこ)変ぜず、人道は一日怠れば忽(たちま)ちに廃(はい)す。されば人道は勤(つと)むるを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず。夫れ人道の勤むべきは、己(おのれ)に克(か)つの教なり。己は私欲なり。私欲は田畑に譬(たと)ふれば草なり。克つとは、此田畑に生ずる草を取捨(とりす)つるを云ふ。己に克つは、我心の田畑に生ずる草をけづり捨て、とり捨てて、我心の米麦を繁茂さする勤なり。是を人道といふ。論語に、己に克ちて礼に復(かえ)る、とあるは此勤なり。
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言志四録・南洲手抄濁水も亦水なり、一澄すれば則ち清水となる。客気も亦気なり、一転すれば則ち正気となる。客を逐ふの工夫は、只是れ己に克つなり、只是れ礼に復るなり。
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伝習録・薛侃録蕭恵問う、「己が私は克ち難し。奈何」と。先生曰く、「汝が己が私を将(もっ)て来たれ。汝に替わりて克たん」と。又た曰く、「人は須らく己が為にするの心有りて、方に能く己に克つべし。能く己に克ちて、方に能く己を成す」と。蕭恵曰く、「恵も亦た頗る己が為にするの心有り。知らず、縁何ぞ己に克つ能わざるか」と。先生曰く、「且く説け、汝が己が為にするの心有りとは是れ如何」と。恵、良久しくして曰く、「恵も亦た一心、好人を做さんと要す。便ち自ら頗る己が為にするの心有りと謂う。今、之を思うに、看来(みるから)に亦た只だ是れ個の軀殻の己を為し得たり。曾て個の真己を為さず」と。先生曰く、「真己は何ぞ嘗て軀殻を離著せんや。恐らくは汝は連(すら)那の軀殻の己をも曾て為さず。且く道え、汝が所謂る軀殻の己とは、豈に是れ耳・目・口・鼻・四肢に非ざらんや」と。恵曰く、「正に是なり。此が為に、目は便ち色を要し、耳は便ち声を要し、口は便ち味を要し、四肢は便ち逸楽を要す。所以に克つ能わず」と。先生曰く、「『美色は人の目をして盲ならしめ、美声は人の耳をして聾ならしめ、美味は人の口をして爽(たが)わしめ、馳騁田猟は人をして発狂せしむ』。這れ都て是れ汝が耳・目・口・鼻・四肢を害する的なり。豈に是れ汝が耳・目・口・鼻・四肢の為なるを得んや。若し耳・目・口・鼻・四肢の為に著(つ)く時は、便ち須らく思量すべし、耳は如何ぞ聴き、目は如何ぞ視、口は如何ぞ言い、四肢は如何ぞ動くかを。必ず須らく礼に非ざれば視・聴・言・動する勿かるべし。方纔(はじ)めて個の耳・目・口・鼻・四肢を成し得たり。這個は才(はじ)めて是れ耳・目・口・鼻・四肢の為に著くなり。汝、今、終日、外に向かいて馳求し、名の為、利の為なるは、這れ都て是れ軀殻の外面の物事の為に著くなり。汝、若し耳・目・口・鼻・四肢の為に著き、礼に非ざれば視・聴・言・動する勿からんと要する時、豈に是れ汝が耳・目・口・鼻・四肢の自ら能く視・聴・言・動する勿からんや。須らく汝が心に由るべし。這の視・聴・言・動は皆な是れ汝が心なり。汝が心の視は、竅を目に発す。汝が心の聴は、竅を耳に発す。汝が心の言は、竅を口に発す。汝が心の動は、竅を四肢に発す。若し汝が心無くんば、便ち耳・目・口・鼻無し。所謂る汝が心も、亦た専ら是れ那の一団の血肉のみに非ず。若し是れ那の一団の血肉ならば、如今、已に死せる人も、那の一団の血肉は還(な)お在り。縁何ぞ視・聴・言・動する能わざるや。所謂る汝が心は、却って是れ那の能く視・聴・言・動する的なり。這個は便ち是れ性なり。便ち是れ天理なり。這個の性有りて、才めて能く生ず。這の性の生理は、便ち之を仁と謂う。這の性の生理は、目に発すれば、便ち視るを会(よ)くす。耳に発すれば、便ち聴くを会くす。口に発すれば、便ち言うを会くす。四肢に発すれば、便ち動くを会くす。都て只だ是れ那の天理の発生なり。其の一身を主宰するを以て、故に之を心と謂う。這の心の本体は、原と只だ是れ個の天理なり。原と非礼無し。這個は便ち是れ汝が真己なり。這個の真己は軀殻の主宰なり。若し真己無くんば、便ち軀殻無し。真に是れ之有れば即ち生じ、之無ければ即ち死す。汝、若し真に那個の軀殻の己が為ならば、必ず須らく這個の真己を用著すべし。便ち須らく常常、這個の真己の本体を保守し、睹(み)ざるに戒慎し、聞かざるに恐懼し、惟だ他の一些を虧損せんことを恐るべし。才かに一毫の非礼の萌動有らば、便ち刀もて割くが如く、針もて刺すが如く、忍耐し過ぎず、必ず須らく刀を去り、針を抜くべし。這れ才めて是れ己が為にするの心有り、力めて能く己に克つなり。汝、今、正に是れ賊を認めて子と作す。縁何ぞ却って己が為にするの心有りと説きて、己に克つ能わざるや」と。
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言志四録・南洲手抄心を霊と為す。其の条理の情識に動く、之を欲と謂ふ。欲に公私有り、情識の条理に通ずるを公と為す。条理の情識に滞るを私と為す。自ら其の通と滞とを弁ずるは、即ち心の霊なり。
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『南洲翁遺訓』第二十一条道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功は「毋意毋必毋固毋我」と云へり。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其の事大抵十に七八迄は能く成し得れども、残り二つを終り迄成し得る人の希れなるは、始は能く己れを慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕はるるなり。功立ち名顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、其の成し得たる事業を負み、苟も我が事を仕遂んとてまづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するもの也。