言志四録 / 南洲手抄
理本無形。無形則無名矣。形而後有名。既有名、則理謂之氣無不可。故專指本體、則形後亦謂之理。專指運用、則形前亦謂之氣、竝無不可。如浩然之氣、專指運用、其實太極之呼吸、只是一誠。謂之氣原、即是理。
新字:理本無形。無形則無名矣。形而後有名。既有名、則理謂之気無不可。故専指本体、則形後亦謂之理。専指運用、則形前亦謂之気、並無不可。如浩然之気、専指運用、其実太極之呼吸、只是一誠。謂之気原、即是理。
書き下し
理は本と形無し。形無ければ則ち名無し。形ありて後に名有り。既に名有れば、則ち理之を気と謂ふも、不可無し。故に専ら本体を指せば、則ち形後も亦之を理と謂ふ。専ら運用を指せば、則ち形前も亦之を気と謂ふ、竝に不可無し。浩然の気の如きは、専ら運用を指すも、其の実太極の呼吸にして、只是れ一誠なり。之を気原と謂ふ、即ち是れ理なり。
現代語訳
理はもともと形がない。形がなければ名もない。形があって初めて名がつく。名がついた以上、理を「気」と呼んでも差し支えない。だから本体(根源)に注目すれば、形が現れた後のものも「理」と呼べるし、そのはたらき(運用)に注目すれば、形が現れる前のものも「気」と呼べる。どちらも間違いではない。孟子のいう「浩然の気」も、そのはたらきに注目した呼び方だが、その実体は宇宙の根源(太極)の呼吸であり、つまるところ一つの「誠」である。それを気の根源と呼ぶが、それはそのまま理でもある。
解説
理と気という朱子学の根本概念を、一斎独自の視点で統合した一条です。理は形も名もない根源、気はそのはたらき——だが両者は視点の違いにすぎず、本体に注目すれば「理」、はたらきに注目すれば「気」と呼べるにすぎない、と説きます。理気を対立させず、一つのものの二面と見るのです。孟子の「浩然の気」さえ、その根源は宇宙の呼吸であり、突きつめれば「一誠」だとします。やや専門的ですが、世界を貫く根源を「誠」の一字に帰着させる一斎の一元的な世界観がうかがえる、思想的な一条です。
この章句が説くこと
理と気太極浩然の気一誠
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