言志四録 / 南洲手抄
畏死者生後之情也、有躯殼而後有是情。不畏死者生前之性也、離躯殼而始見是性。人須自得不畏死之理於畏死之中、庶乎復性焉。
書き下し
死を畏るるは生後の情なり、躯殻有つて後に是の情あり。死を畏れざるは生前の性なり、躯殻を離れて始て是の性を見る。人は須らく死を畏れざるの理を死を畏るるの中に自得すべし、性に復るに庶し。
現代語訳
死を恐れるのは生まれた後に生じる「情」であり、肉体があって初めてこの情が生まれる。死を恐れないのは生まれる前からの「性」であり、肉体を離れて初めてこの性が見える。人は、死を恐れるその中でこそ、死を恐れなくてよい道理を自ら会得すべきだ。そうすれば本来の性に立ち返ることができる。
解説
前条の生死観を、「情」と「性」の対で凝縮した一条です。死への恐れは、肉体を持って生まれた後に生じる後天的な感情(情)にすぎない。一方、死を恐れない境地は、肉体を持つ前からの本来の性であり、肉体への執着を離れたとき初めて現れる。だから恐れを消そうとするのではなく、恐れの只中で「恐れなくてよい理」を自分の腹に落とすこと——それが本来の自己に立ち返る道だと説きます。恐れを否定せず、その中に答えを見いだすという姿勢は、不安との向き合い方として今も示唆に富みます。
この章句が説くこと
情と性死の恐れ復性自得
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