言志四録 / 南洲手抄
賢者臨歿、見理當然、以爲分、恥畏死、而希安死、故神氣不亂。又有遺訓、足以聳聽。而其不及聖人亦在於此。聖人平生言動無一非訓。而臨歿、未必爲遺訓。視死生眞如晝夜、無所著念。
新字:賢者臨歿、見理当然、以為分、恥畏死、而希安死、故神気不乱。又有遺訓、足以聳聴。而其不及聖人亦在於此。聖人平生言動無一非訓。而臨歿、未必為遺訓。視死生真如昼夜、無所著念。
書き下し
賢者は歿するに臨み、理の当に然るべきを見て、以て分と為し、死を畏るるを恥ぢて、死を安んずるを希ふ、故に神気乱れず。又遺訓あり、以て聴を聳かすに足る。而かも其の聖人に及ばざるも亦此に在り。聖人は平生の言動一として訓に非ざるは無し。而して歿するに臨みて、未だ必ずしも遺訓を為らず。死生を視ること真に昼夜の如し、念を著くる所無し。
現代語訳
賢者は死に臨んで、それが当然の道理だと見て自分の分(さだめ)として受け入れ、死を恐れることを恥じて安らかに死のうと願う。だから精神は乱れない。しかも立派な遺訓を残し、人の耳を驚かせるに足る。だが聖人に及ばないのも、まさにこの点にある。聖人は平生の言動すべてが教えであり、死に臨んでことさら遺訓を作ろうとはしない。生死を見ることまさに昼と夜のようで、そこに何の執着も置かないのである。
解説
賢者と聖人の、死をめぐる違いを説いた一条です。賢者は死を分として受け入れ、心を乱さず、りっぱな遺訓を残す。それは立派なことですが、一斎はそこに一段上を見ます。聖人は日々の一挙一動がそのまま教えなので、臨終にことさら「遺訓」を構える必要がない。死を昼夜の交替のように自然に見て、執着がないのです。裏を返せば、最期に立派な言葉を残すことより、平生の生き方そのものを教えにできるかが問われている。日々の言動こそが遺言だという、厳しくも本質的な指摘です。
この章句が説くこと
生死観遺訓平生聖人と賢人
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