易経 / 文言
君子學以聚之,問以辯之,寬以居之,仁以行之。《易》曰「見龍在田、利見大人」,君德也。九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故「乾乾」因其時而「惕」,雖危「无咎」矣。
新字:君子学以聚之,問以弁之,寛以居之,仁以行之。《易》曰「見竜在田、利見大人」,君徳也。九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故「乾乾」因其時而「惕」,雖危「无咎」矣。
書き下し
君子は學びて以て之を聚め、問いて以て之を辯じ、寬にして以て之に居り、仁にして以て之を行う。《易》に曰く「見龍田に在り、大人を見るに利し」とは、君の德なり。九三は剛を重ねて中ならず、上は天に在らず、下は田に在らず、故に「乾乾」として其の時に因りて「惕る」。危うしと雖も「咎无し」。
現代語訳
君子は学んで知識を集め、問うてその是非を明らかにし、寛やかな心でその中に身を置き、仁の心でこれを行う。易に「あらわれた龍が田にいる、大人に会うのがよい」とあるのは、君たる者の徳である。九三は剛の爻が重なっていて中を得ておらず、上は天にあるわけでもなく、下は田にあるわけでもない。だから「努め励み」、その時に応じて「慎み恐れる」。危ういけれども「咎はない」のである。
解説
前半は、学びの四段階を示した美しい一節です。学んで集め、問うて明らかにし、寛やかにそこに身を置き、仁の心で実行する。知識を集めるだけでも、議論して切れ味を出すだけでも足りません。集めたものを急いで決めつけず、寛やかに抱えて熟成させる時間があり、最後に人への思いやりとして行いに落ちる。ここまで来てはじめて学びが徳になる、という順序です。後半は九三の位置の説明で、剛が重なって中を得ず、天でも田でもない中途半端な場所にいると言います。上でも下でもない、宙ぶらりんの位置。だからこそ努め励み、時に応じて慎むしかありません。この二つを重ねると、実務での示唆が見えてきます。学びの途中、立場の途中という不安定な時期にこそ、焦って結論を出さず、寛やかに問い続けながら、慎重に足元を確かめる。それが危うい場所を渡る作法です。
この章句が説くこと
文言伝学問寛仁九三見竜在田
関連する章句
-
易経・文言九三に曰く、「君子終日乾乾、夕べに惕若たり、厲うけれども咎无し」とは、何の謂ぞや。子曰く、「君子は德に進み業を脩む。忠信は、德に進む所以なり。辭を脩めて其の誠を立つるは、業に居る所以なり。至るを知りて之に至る、與に幾を言うべきなり。終りを知りて之を終う、與に義を存すべきなり。是の故に上位に居りて驕らず、下位に在りて憂えず、故に乾乾として其の時に因りて惕る。危うしと雖も咎无し」と。
-
易経・文言初九に曰く、「潛龍用うるなかれ」とは、何の謂ぞや。子曰く、「龍の德ありて隱るる者なり。世に易えず、名を成さず、世を遯れて悶うること无く、是とせられずして悶うること无し。樂しめば則ち之を行い、憂うれば則ち之を違る。確乎として其れ抜くべからず、潛龍なり」と。九二に曰く、「見龍田に在り、大人を見るに利し」とは、何の謂ぞや。子曰く、「龍德ありて正中なる者なり。庸言も之れ信、庸行も之れ謹み、邪を閑ぎて其の誠を存し、世を善くして伐らず、德博くして化す。《易》に曰く『見龍田に在り、大人を見るに利し』とは、君の德なり」と。
-
易経・文言「潛龍用うるなかれ」とは、陽氣潛み藏るるなり。「見龍田に在り」とは、天下文明なり。「終日乾乾」とは、時と偕に行くなり。「或いは躍りて淵に在り」とは、乾道乃ち革まるなり。「飛龍天に在り」とは、乃ち天德に位するなり。「亢龍悔い有り」とは、時と偕に極まるなり。乾元の「九を用う」とは、乃ち天則を見るなり。
-
『近思録』巻2 為学大抵学は言はずして自得する者、乃ち自得なり。安排布置する者有るは、皆自得に非ざるなり。視聴思慮動作は、皆天なり。人は但だ其の中に於て真と妄とを識り得んことを要するのみ。明道先生曰く、学は只だ鞭辟近裏、己に著けんことを要するのみ。故に「切に問ひて近く思へば、則ち仁其の中に在り」。「言忠信、行篤敬ならば、蛮貊の邦と雖も行はれん。言忠信ならず、行篤敬ならずんば、州里と雖も行はれんや。立てば則ち其の前に参するを見、輿に在れば則ち其の衡に倚るを見る、夫れ然る後に行はる」。只だ此れ是れ学なり。質の美なる者は明らかにし得て尽くし、査滓便ち渾化す。却って天地と体を同じくす。其の次は惟だ荘敬持養す。其の至るに及びては則ち一なり。「忠信は徳に進む所以、辞を修めて其の誠を立つるは業に居る所以」なる者は、乾道なり。「敬以て内を直くし、義以て外を方にす」なる者は、坤道なり。凡そ人才かに学べば、便ち須らく力を著くる処を知るべし。既に学べば便ち須らく力を得る処を知るべし。人の園圃を治めて、知力を役すること甚だ労する有り。先生曰く、蠱の象に「君子以て民を振ひ徳を育ふ」と。君子の事は、惟だ此の二者有るのみ、余に他無し。二者は己の為人の為の道なり。「博く学びて篤く志し、切に問ひて近く思ふ」、何を以て「仁其の中に在り」と言ふか。学者要ず之を思ひ得よ。此を了すれば便ち是れ上に徹し下に徹するの道なり。弘にして毅ならざれば、則ち立ち難し。毅にして弘ならざれば、則ち以て之に居る無し。伊川先生曰く、古の学者は、優柔厭飫して、先後次序有り。今の学者は、却って只だ一場の話説を做して、高きを務むるのみ。常に杜元凱の語を愛す、「江海の浸すが若く、膏沢の潤すが若く、渙然として氷釈け、怡然として理順ふ。然る後に得たりと為すなり」と。今の学者は、往往にして游夏を以て小と為し、学ぶに足らずとす。然れども游夏の一言一事は、却って総べて是れ実なり。後の学者は高きを好む。
-
『近思録』巻2 為学「至るを知りて之に至る」は、知を致すなり。至る所を知らんことを求めて後に之に至る。之を知ること先に在り、故に与に幾すべし。所謂「条理を始むる者は、智の事なり」。「終はるを知りて之を終ふ」は、力行なり。既に終はる所を知れば、則ち力め進みて之を終ふ。之を守ること後に在り、故に与に義を存すべし。所謂「条理を終ふる者は、聖の事なり」。此れ学の始終なり。君子は敬を主として以て其の内を直くし、義を守りて以て其の外を方にす。敬立ちて内直く、義形れて外方なり。義は外に形るるも、外に在るに非ざるなり。敬義既に立てば、其の徳盛んなり。大ならんことを期せずして大なり、徳孤ならざるなり。用ふる所として周からざる無く、施す所として利あらざる無し。孰か疑ひと為さんや。動くに天を以てするを無妄と為し、動くに人欲を以てすれば則ち妄なり。無妄の意大なるかな。邪心無しと雖も、苟も正理に合はざれば、則ち妄なり、乃ち邪心なり。既已に無妄なれば、宜しく往く有るべからず。往けば則ち妄なり。故に無妄の彖に曰く、「其れ正に匪ざれば眚(わざはひ)有り、往く攸有るに利あらず」と。人の蘊蓄は、学に由りて大なり。多く前古の聖賢の言と行とを聞くに在り。跡を考へて以て其の用を観、言を察して以て其の心を求む。識りて之を得、以て蓄へて其の徳を成す。咸の象に曰く、「君子以て虚にして人を受く」と。伝に曰く、「中に私主無ければ、則ち感じて通ぜざる無し。量を以て之を容れ、合ふを択びて之を受くるは、聖人の感ずれば必ず通ずるの道に非ざるなり」と。其の九四に曰く、「貞なれば吉にして悔亡ぶ、憧憧として往来すれば、朋爾の思ひに従ふ」と。伝に曰く、「感なる者は、人の動なり」と。故に咸は皆人身に就きて象を取る。四は心の位に当たりて其の心に咸ずと言はず、感は乃ち心なり。感の道は通ぜざる所無し。私係する所有れば、則ち感通を害す、所謂悔なり。聖人の天下の心を感ぜしむるは、寒暑雨暘の通ぜざる無く応ぜざる無きが如き者も、亦た貞なるのみ。貞なる者は、虚中無我の謂なり。
-
易経・文言九四に曰く、「或いは躍りて淵に在り、咎无し」とは、何の謂ぞや。子曰く、「上下常无きも、邪を為すに非ざるなり。進退恆无きも、群を離るるに非ざるなり。君子は德に進み業を脩め、時に及ばんと欲す、故に咎无し」と。九五に曰く、「飛龍天に在り、大人を見るに利し」とは、何の謂ぞや。子曰く、「同聲相い應じ、同氣相い求む。水は濕に流れ、火は燥に就く。雲は龍に從い、風は虎に從う。聖人作りて萬物覩る。天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ。則ち各おの其の類に從うなり」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る