易経 / 繋辞上
「勞謙君子,有終吉。」子曰:「勞而不伐,有功而不德,厚之至也,語以其功下人者也。德言盛,禮言恭,謙也者,致恭以存其位者也。」「亢龍有悔」,子曰:「貴而无位,高而无民,賢人在下位而无輔,是以動而有悔也。」
新字:「労謙君子,有終吉。」子曰:「労而不伐,有功而不徳,厚之至也,語以其功下人者也。徳言盛,礼言恭,謙也者,致恭以存其位者也。」「亢竜有悔」,子曰:「貴而无位,高而无民,賢人在下位而无輔,是以動而有悔也。」
書き下し
「労謙の君子、終わり有りて吉。」子曰く、「労して伐(ほこ)らず、功有りて徳とせず、厚きの至りなり。其の功を以て人に下る者を語るなり。徳は盛んなるを言い、礼は恭しきを言う。謙なる者は、恭を致して以て其の位を存する者なり」と。「亢龍悔有り。」子曰く、「貴くして位无く、高くして民无く、賢人下位に在りて輔(たす)くる无し。是を以て動きて悔い有るなり」と。
現代語訳
「謙の卦に、労苦を重ねてなお謙虚な君子は、よい終わりを得て吉である、とある。」先生が言われた。「骨折りをしてもそれを誇らず、功績があってもそれを自分の手柄としない。人としての厚みの極みである。これは、功績がありながら人にへりくだる者のことを語ったものだ。徳については盛んであることを言い、礼についてはうやうやしいことを言う。謙とは、うやうやしさを尽くすことによって、自分の位を保ち続ける者のことである」と。「乾の卦に、昇りつめた龍には悔いがある、とある。」先生が言われた。「尊いけれども実の位がなく、高いけれども従う民がなく、賢い人が下の位にいても助けてくれる者がいない。だから動けば悔いが生じるのである」と。
解説
この章句が説くこと
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言志四録・言志耋録 第百五十二条 愆を免るるの道愆を免るるの道は、謙と譲とに在り。福を干むるの道は、恵と施とに在り。
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史記 陳杞世家此に在らずして、其れ異国に在らんか。此の其の身に非ずして、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は太嶽の後なり。物は能く両ながら大なること莫し。陳衰へなば、此れ其れ昌えんか」と。厲公蔡の女を取る。蔡の女蔡人と乱す。厲公数々蔡に如きて淫す。七年、厲公の殺す所の桓公の太子免の三弟、長を躍と曰ひ、中を林と曰ひ、少を杵臼と曰ふ。共に蔡人をして厲公を誘ふに好女を以てせしめ、蔡人と共に厲公を殺して躍を立つ。是を利公と為す。利公は、桓公の子なり。利公立ちて五月にして卒し、中弟の林を立つ。是を荘公と為す。荘公七年にして卒し、少弟の杵臼立つ。是を宣公と為す。宣公の三年、楚の武王卒し、楚始めて彊し。十七年、周の恵王陳の女を娶りて后と為す。二十一年、宣公後に嬖姫有りて子款を生む。之を立てんと欲し、乃ち其の太子御寇を殺す。御寇素より厲公の子完を愛す。完禍の己に及ばんことを懼れ、乃ち斉に奔る。斉の桓公陳完をして卿為らしめんと欲す。完曰く、「羈旅の臣、幸ひに負檐(ふたん)を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢て高位に当たらず」と。桓公工正と為さしむ。斉の懿仲陳の敬仲に妻せんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に飛び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と京(おほい)なるもの莫し」と。三十七年、斉の桓公蔡を伐ち、蔡敗る。南のかた楚を侵し、召陵に至り、還りて陳を過ぐ。陳の大夫轅濤塗其の陳を過ぐるを悪み、斉を詐りて東道に出でしむ。東道悪しく、桓公怒り、陳の轅濤塗を執ふ。是の歳、晋の献公其の太子申生を殺す。四十五年、宣公卒し、子の款立つ。是を穆公と為す。穆公の五年、斉の桓公卒す。十六年、晋の文公楚の師を城濮に敗る。是の歳、穆公卒し、子の共公朔立つ。共公の六年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。是を穆王と為す。十一年、秦の穆公卒す。十八年、共公卒し、子の霊公平国立つ。霊公の元年、楚の荘王即位す。六年、楚陳を伐つ。十年、陳楚と平らぐ。
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史記 魏公子列伝魏王、公子のその兵符を盗み、矯めて晋鄙を殺せしを怒る、公子もまた自ら知るなり。已に秦を卻けて趙を存し、将をしてその軍を将ゐて魏に帰らしめ、而して公子は独り客と趙に留まる。趙の孝成王、公子の晋鄙の兵を矯め奪ひて趙を存せしを徳とし、乃ち平原君と計り、五城を以て公子を封ぜんとす。公子これを聞き、意驕矜して自ら功とするの色有り。客に公子に説く有りて曰く、「物に忘るべからざる有り、或いは忘れざるべからざる有り。夫れ人の公子に徳有るは、公子忘るべからざるなり。公子の人に徳有るは、願はくは公子これを忘れよ。且つ魏王の令を矯め、晋鄙の兵を奪ひて以て趙を救ふは、趙に於いては則ち功有り、魏に於いては則ち未だ忠臣たらざるなり。公子乃ち自ら驕りてこれを功とす、竊かに公子の為に取らざるなり」と。是に於いて公子立ちどころに自ら責め、容るる所無きが若きに似たり。趙王、埽除して自ら迎へ、主人の礼を執り、公子を引きて西階に就かしむ。公子側行して辞譲し、東階より上る。自ら罪過を言ひ、以て魏に負き、趙に功無しとす。趙王侍酒して暮れに至るも、口に五城を献ずるに忍びず、公子の退譲するを以てなり。公子竟に趙に留まる。趙王、鄗を以て公子の湯沐の邑と為し、魏もまた信陵を以て復た公子に奉ず。公子趙に留まる。公子聞く、趙に処士毛公の博徒に蔵れ、薛公の売漿の家に蔵るる有りと。公子両人に見えんと欲す、両人自ら匿れて公子に見ゆるを肯んぜず。公子所在を聞き、乃ち閒歩して往きて此の両人に従ひて遊び、甚だ歓ぶ。平原君これを聞き、その夫人に謂ひて曰く、「始め吾、夫人の弟公子は天下に双び無しと聞く。今吾これを聞くに、乃ち妄りに博徒・売漿者に従ひて游ぶ、公子は妄人なるのみ」と。夫人以て公子に告ぐ。公子乃ち夫人に謝して去らんとして曰く、「始め吾、平原君の賢なるを聞く、故に魏王に負きて趙を救ひ、以て平原君に称ふ。平原君の遊ぶや、徒だ豪挙のみ、士を求めざるなり。
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説苑・尊賢孔子閒居して、喟然として歎じて曰く、「銅鞮伯華にして死する無くんば、天下其れ定まる有らん」と。子路曰く、「願わくは其の人と為りの何如なるかを聞かん」と。孔子曰く、「其の幼きや敏にして学を好み、其の壮んなるや勇有りて屈せず、其の老いたるや道有りて能く以て人に下る」と。子路曰く、「其の幼きや敏にして学を好むは則ち可なり、其の壮んなるや勇有りて屈せざるは則ち可なり。夫れ道有らば又誰にか下らんや」と。孔子曰く、「由よ、知らざるなり。吾之を聞く、衆を以て寡を攻めて消えざる無く、貴を以て賤に下りて得ざる無しと。昔周公旦天下の政を制するに在りて士七十人に下る、豈道無からんや。士を得んと欲するの故なり。夫れ道有りて能く天下の士に下る、君子なるかな」と。
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