師導古典を学びたいすべての人に

易経 / 繋辞上

子曰:「易其至矣乎!」,夫易,聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑,崇效天,卑法地。天地設位,而易行乎其中矣,成性存存,道義之門。聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮。繫辭焉,以斷其吉凶,是故謂之爻。言天下之至賾,而不可惡也。言天下之至動,而不可亂也。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。「鳴鶴在陰,其子和之,我有好爵,吾與爾靡之。」

新字:子曰:「易其至矣乎!」,夫易,聖人所以崇徳而広業也。知崇礼卑,崇効天,卑法地。天地設位,而易行乎其中矣,成性存存,道義之門。聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。聖人有以見天下之動,而観其会通,以行其典礼。繫辞焉,以断其吉凶,是故謂之爻。言天下之至賾,而不可悪也。言天下之至動,而不可乱也。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其変化。「鳴鶴在陰,其子和之,我有好爵,吾与爾靡之。」

書き下し

子曰く、「易は其れ至れるかな」と。夫れ易は、聖人の徳を崇(たか)くして業を広むる所以なり。知は崇く礼は卑(ひく)し。崇きは天に效(なら)い、卑きは地に法(のっと)る。天地位を設けて、易は其の中に行わる。性を成し存を存す、道義の門なり。聖人以て天下の賾(さく)を見る有り、而して諸を其の形容に擬し、其の物宜に象る、是の故に之を象と謂う。聖人以て天下の動を見る有り、而して其の会通を観て、以て其の典礼を行う。辞を繋けて、以て其の吉凶を断ず、是の故に之を爻と謂う。天下の至賾を言いて、悪(にく)むべからず。天下の至動を言いて、乱るべからず。之を擬して而る後に言い、之を議して而る後に動く。擬議して以て其の変化を成す。「鳴鶴陰に在り、其の子之に和す。我に好爵有り、吾爾(なんじ)と之を靡(とも)にせん。」

現代語訳

先生が言われた、「易とは、まことに極まったものだ」と。そもそも易は、聖人が徳を高くし、事業を広げるためのものである。知は高く天のようであり、礼はへりくだって地のようである。高いものは天にならい、低いものは地にのっとる。天と地とがそれぞれの位置を得て、易はそのただ中に行われる。本性を成し、そのあり方を保ち続ける。それが道と義への入り口である。聖人は天下の入り組んだありさまを見てとり、それをかたちになぞらえ、その物にふさわしい姿に象った。だからこれを象という。聖人は天下の動きを見てとり、その集まり通じるところを観て、そこにのっとった礼を行った。そこに言葉を結びつけて吉凶を判断した。だからこれを爻という。天下のきわめて入り組んだものを語っても、厭わしくならない。天下のきわめて激しい動きを語っても、乱れない。よくなぞらえてから語り、よく議してから動く。なぞらえ議することで、その変化を成し遂げるのである。「鶴が物陰で鳴けば、その子がこれに和して鳴く。私によい酒杯がある。あなたと分かち合いたい。」

解説

「知は崇く礼は卑し」という対句が中心にあります。認識や見識はできるだけ高く広く持ち、身の処し方や振る舞いはどこまでも低くへりくだる。この高低の落差こそが、天と地のあいだに易が働く場所をつくるのだ、という構図です。見識だけ高くて態度も高いと、人は離れます。逆に腰は低いが見識が伴わなければ、事は進みません。両方を同時に持てというのが、この一段の要求です。後半の「擬之而後言、議之而後動」も実践的です。語る前になぞらえて考え、動く前に議して確かめる。行き当たりばったりを戒める言葉として、そのまま会議や意思決定に使えます。末尾に引かれた鶴の詩は、中孚の卦の爻辞です。物陰で親鶴が鳴けば、姿が見えなくても子鶴が応える。誠実な言葉は、見ていないところでも必ず響き合うという含みがあり、次段の言行論への橋渡しになっています。

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ