伝習録 / 黄以方録
先生起行征思田,德洪與汝中追送嚴灘。汝中舉佛家「實相」、「幻相」之說。先生曰:「有心俱是實,無心俱是幻。無心俱是實,有心俱是幻。」汝中曰:「『有心俱是實,無心俱是幻』,是本體上說工夫。『無心俱是實,有心俱是幻』,是工夫上說本體。」先生然其言。洪於是時尚未了達。數年用功,始信本體、工夫合一。但先生是時因問偶談;若吾儒指點人處,不必借此立言耳。
新字:先生起行征思田,徳洪与汝中追送厳灘。汝中舉仏家「実相」、「幻相」之説。先生曰:「有心倶是実,無心倶是幻。無心倶是実,有心倶是幻。」汝中曰:「『有心倶是実,無心倶是幻』,是本体上説工夫。『無心倶是実,有心倶是幻』,是工夫上説本体。」先生然其言。洪於是時尚未了達。数年用功,始信本体、工夫合一。但先生是時因問偶談;若吾儒指点人処,不必借此立言耳。
書き下し
先生、起ちて思・田を征するに行く。徳洪、汝中と厳灘に追い送る。汝中、仏家の「実相」「幻相」の説を挙ぐ。先生曰く、「心有れば倶に是れ実、心無ければ倶に是れ幻なり。心無ければ倶に是れ実、心有れば倶に是れ幻なり」と。汝中曰く、「『心有れば倶に是れ実、心無ければ倶に是れ幻』は、是れ本体の上より工夫を説く。『心無ければ倶に是れ実、心有れば倶に是れ幻』は、是れ工夫の上より本体を説く」と。先生、其の言を然りとす。洪は是の時に於て尚お未だ了達せず。数年、功を用いて、始めて本体・工夫の合一を信ず。但だ先生は是の時、問に因りて偶々談ず。若し吾が儒の人を指点する処は、必ずしも此を借りて言を立てざるのみ。
現代語訳
先生が立って思恩・田州を征伐に行かれた。徳洪と汝中は厳灘まで追って見送った。汝中が仏家の「実相」「幻相」の説を挙げた。先生は「心があればみな実、心がなければみな幻だ。心がなければみな実、心があればみな幻だ」と言われた。汝中は「前者は本体の上から工夫を説き、後者は工夫の上から本体を説いています」と言った。先生はその言葉を認められた。私(徳洪)はこの時、まだ理解できなかった。数年努力して、初めて本体と工夫が合一することを信じた。ただ先生はこの時、問いに応じてたまたま語られたのだ。我々儒が人を指し示す所では、これを借りて言葉を立てる必要はない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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伝習録・黄省曾録丁亥年九月、先生、起復して思・田を征す。将に命じて行かんとする時、徳洪、汝中と学を論ず。汝中、先生の教言を挙げて曰く、「善無く悪無きは是れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動、善を知り悪を知るは是れ良知、善を為し悪を去るは是れ格物なり」と。徳洪曰く、「此の意、如何」と。汝中曰く、「此れ恐らくは未だ是れ究竟の話頭ならず。若し心体は是れ善無く・悪無しと説かば、意も亦た是れ善無く・悪無きの意、知も亦た是れ善無く・悪無きの知、物も是れ善無く・悪無きの物ならん。若し意に善・悪有りと説かば、畢竟、心体に還た善・悪有りて在らん」と。徳洪曰く、「心体は是れ『天の命ずるの性』なり。原と是れ善無く・悪無き的なり。但だ人に習心有り、意念の上に善悪有りて在るを見る。格・致・誠・正・修は、此れ正に是れ那の性体に復するの功夫なり。若し原と善悪無くんば、功夫も亦た説くを消せざるなり」と。是の夕、天泉橋に侍坐し、各々挙げて正を請う。先生曰く、「我、今、将に行かんとす。正に你們の来たりて此の意を講破するを要す。二君の見は、正に好し、相い資して用と為す。各々一辺に執すべからず。我、這裏に人を接するに、原と此の二種有り。利根の人は、直だ本原の上より悟入す。人心の本体は原と是れ明瑩無滞的なり。原と是れ個の未発の中なり。利根の人は、一たび本体を悟らば即ち是れ功夫なり。人己内外、一斉に倶に透り了る。其の次は習心の在る有るを免れず。本体、蔽を受く。故に且く意念の上に実落に善を為し悪を去るを教う。功夫、熟する後、渣滓、去り得て尽くる時、本体も亦た明らかに尽くさん。汝中の見は、是れ我、這裏に利根の人を接する的なり。徳洪の見は、是れ我、這裏に其の次の為に法を立つる的なり。二君、相い取りて用と為さば、則ち中人の上下、皆な道に引き入るべし。若し各々一辺に執せば、跟前に便ち人を失う有り。便ち道体に於て各々未だ尽くさざる有らん」と。既にして曰く、「已後、朋友と講学するに、切に我が宗旨を失うべからず。善無く悪無きは是れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動、善を知り悪を知る的は是れ良知、善を為し悪を去るは是れ格物なり。只だ我が這の話頭に依りて人に随いて指点せば、自ら病痛無し。此れ原と是れ徹上徹下の功夫なり。利根の人は、世にも亦た遇い難し。本体功夫、一悟して尽く透るは、此れ顔子・明道も承当するを敢えてせざる所なり。豈に軽易に人に望むべけんや。人に習心有り。他をして良知の上に実に善を為し悪を去るの功夫を用いしめず、只だ去きて懸空に個の本体を想わば、一切の事為、倶に着実ならず。一個の虚寂を養成するに過ぎず。此個の病痛は小小に非ず。早く説破せざるべからず」と。是の日、徳洪・汝中、倶に省有り。
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伝習録・黄以方録一友、挙ぐ、「仏家、手指を以て顕し出だし、問いて曰く、『衆、曾て見るや否や』と。衆曰く、『之を見る』と。復た手指を以て袖に入れ、問いて曰く、『衆、還た見るや否や』と。衆曰く、『見ず』と。仏、説く、『還た未だ性を見ず』と。此の義、未だ明らかならず」と。先生曰く、「手指は見る有り、見ざる有り。爾の見性は常に在り。人の心神は只だ睹る有り聞く有るの上に在りて馳騖し、睹ず聞かざるの上に在りて著実に功を用いず。蓋し睹ず聞かざるは是れ良知の本体、戒慎・恐懼は是れ良知を致すの工夫なり。学者、時時刻刻、常に其の睹ざる所を睹、常に其の聞かざる所を聞かば、工夫、方に個の実落の処有らん。久久にして成熟する後、則ち力を著くるを須いず、防検を待たずして、真性、自ら息まざらん。豈に外に在る者の聞見を以て累と為さんや」と。
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『驢鞍橋』卷上一日僧問ふ。書し玉ふ処の草分等は、実有の見にあらすや。師答て曰く中々実有の見也。凡夫心は皆実有也。扨凡夫心を以て修せずして、何を以て修せんや。今時無の見に落ちて人を損ふ類多し。或は本来空也と澄し居るあり、是れ実に甚だしき也。総して菩提を求むる有心は、有を離るゝ事有り、本来空と心得居る無心は、有を離るゝ事なし。法然抔の念仏も有心也。然れども実有の浄土を造り立て念仏する中に、無念の徳備はる道理有り、今時元空也とすまし居る者は、修行せんと思ふも早や有の見也と云ふて、悪業を作り居るか如しと也。
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言志四録・南洲手抄心無きに心有るは、工夫是なり。心有るに心無きは、本体是なり。
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伝習録・黄以方録先生曰く、「人の本体は、常常、是れ寂然不動的なり。常常、是れ感じて遂に通ずる的なり。未だ応ぜざるは是れ先にあらず、已に応ずるは是れ後にあらず」と。
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伝習録・黄省曾録先生曰く、「知る無く知らざる無しとは、本体は原と是くの如し。譬えば日は未だ嘗て心に物を照らす有らずして、自ら物として照らさざる無し。照らす無く照らさざる無きは、原と是れ日の本体なり。良知は本と知る無し。今、却って知る有らんことを要す。本と知らざる無し。今、却って知らざる有るかと疑う。只だ是れ信ずること及ばざるのみ」と。
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