伝習録 / 黄以方録
先生嘗語學者曰:「心禮上著不得一念留滯,就如眼著不得些子塵沙。些子能得幾多?滿眼便昏天黑地了。」又曰:「這一念不但是私念,便好的念頭亦著不得些子。如眼中放些金玉屑,眼亦開不得了。」
新字:先生嘗語学者曰:「心礼上著不得一念留滞,就如眼著不得些子塵沙。些子能得幾多?満眼便昏天黒地了。」又曰:「這一念不但是私念,便好的念頭亦著不得些子。如眼中放些金玉屑,眼亦開不得了。」
書き下し
先生、嘗て学者に語りて曰く、「心体の上、一念の留滞を著け得ず。就ち眼に些子の塵沙を著け得ざるが如し。些子は能く幾多を得んや。眼に満つれば便ち昏天黒地なり」と。又た曰く、「這一念は但だ是れ私念のみならず、便ち好き的の念頭も亦た些子を著け得ず。眼中に些の金玉の屑を放つが如きは、眼も亦た開き得ず」と。
現代語訳
先生はかつて学ぶ者に言われた。「心の本体の上に、一念も留めてはならない。目に少しの砂も入れられないのと同じだ。少しといっても、どれほど入るか。目に満ちれば、天も地も暗くなる」。また「この一念は、私の念だけではない。良い念も少しも着けられない。目の中に金や玉の屑を入れれば、目は開けられない」と言われた。
解説
心は、目に砂が入るとかすんでしまうように、ほんのわずかな「留滞」でも働きが鈍ります。たとえそれが「良い念頭」であったとしても、心に執着として留まれば、物事をありのままに見る妨げとなるのです。何かを成し遂げようとするとき、目標達成への強い思いは大切ですが、それが執着に変わると、かえって視野を狭め、柔軟な対応を阻害することがあります。心は常にクリアな状態を保ち、囚われのない自由な発想で物事に取り組むことが、本質を見抜く力につながります。
この章句が説くこと
便好的念頭亦著不得些子如眼中放些金玉屑眼亦開不得了集中
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