伝習録 / 黄以方録
先生曰:「今之論性者,紛紛異同,皆是說性,非見性也。見性者無異同之可言矣。」
新字:先生曰:「今之論性者,紛紛異同,皆是説性,非見性也。見性者無異同之可言矣。」
書き下し
先生曰く、「今の性を論ずる者、紛紛として異同あるは、皆な是れ性を説くにして、性を見るに非ざるなり。性を見る者は異同の言うべき無し」と。
現代語訳
先生は言われた。「今、性を論じる者が紛々と異同を争うのは、みな性を説いているのであって、性を見ているのではない。性を見た者には、異同を言うことがない」。
解説
ある事柄について、多くの人が異なる意見を主張し、議論が紛糾している時、それはまだ誰もその本質を本当に理解し、体験していない証拠かもしれません。本当に核心を捉えた人は、言葉で説明するよりも、その真実を自ら体現しているため、あえて論争する必要を感じないものです。私たちが何かについて深く考え、議論する時、表面的な言葉の応酬に終始するのではなく、その奥にある本質を見極めようとする姿勢が大切です。
この章句が説くこと
皆是説性非見性也見性者無異同之可言矣
関連する章句
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伝習録・黄以方録一友、挙ぐ、「仏家、手指を以て顕し出だし、問いて曰く、『衆、曾て見るや否や』と。衆曰く、『之を見る』と。復た手指を以て袖に入れ、問いて曰く、『衆、還た見るや否や』と。衆曰く、『見ず』と。仏、説く、『還た未だ性を見ず』と。此の義、未だ明らかならず」と。先生曰く、「手指は見る有り、見ざる有り。爾の見性は常に在り。人の心神は只だ睹る有り聞く有るの上に在りて馳騖し、睹ず聞かざるの上に在りて著実に功を用いず。蓋し睹ず聞かざるは是れ良知の本体、戒慎・恐懼は是れ良知を致すの工夫なり。学者、時時刻刻、常に其の睹ざる所を睹、常に其の聞かざる所を聞かば、工夫、方に個の実落の処有らん。久久にして成熟する後、則ち力を著くるを須いず、防検を待たずして、真性、自ら息まざらん。豈に外に在る者の聞見を以て累と為さんや」と。
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伝習録・黄省曾録問う、「古人、性を論ずるに、各々異同有り。何者か乃ち定論と為す」と。先生曰く、「性に定体無し。論も亦た定体無し。本体の上より説く者有り、発用の上より説く者有り、源頭の上より説く者有り、流弊の処より説く者有り。総じて之を言えば、只だ是れ一個の性なり。但だ見る所に浅深有るのみ。若し一辺に執定せば、便ち是ならず。性の本体は、原と是れ善無く・悪無き的なり。発用の上も也(また)原と是れ以て善と為すべく、以て不善と為すべき的なり。其の流弊も也た原と是れ一定の善、一定の悪なり。譬えば眼の如し。喜ぶ時の眼有り、怒る時の眼有り、直視すれば就ち是れ看るの眼、微視すれば就ち是れ覷(うかが)うの眼なり。総じて之を言えば、只だ是れ這個の眼なり。若し怒る時の眼を見得て、就ち未だ嘗て喜ぶの眼有らずと説き、看る時の眼を見得て、就ち未だ嘗て覷うの眼有らずと説かば、皆な是れ執定なり。就ち是れ錯(あやま)りなるを知る。孟子の性を説くは、直だ源頭の上より説き来たる。亦た是れ個の大概、此くの如しと説く。荀子の性悪の説は、是れ流弊の上より説き来たる。也た未だ尽くは他を是ならずと説くべからず。只だ是れ見得ること未だ精ならざるのみ」と。
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伝習録・黄省曾録又た曰く、「孟子の病源は、性に善無く不善無しの上より見来たる。性に善無く不善無しとは、此くの如く説くと雖も、亦た大差無し。但だ告子は執定して看了り、便ち個の善無く不善無きの性の内に在る有り。善有り悪有るは又た物感の上に在りて看れば、便ち個の物の外に在る有りて、却って両辺に做して看了る。便ち差うを会(よ)くせん。善無く不善無きは、性は原と是れ此くの如し。悟り得て時に及ばば、只だ此の一句にて便ち尽き了る。更に内外の間有る無し。告子は一個の性の内に在るを見、一個の物の外に在るを見る。便ち他の性に於て未だ透徹せざる処有るを見る」と。
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伝習録・黄修易録問う、「『生を之れ性と謂う』は、告子も亦た説き得て是なり。孟子は如何ぞ之を非とするか」と。先生曰く、「固より是れ性なり。但だ告子は認め得ること一辺に去り了りて、頭脳を暁り得ず。若し頭脳を暁り得ば、此くの如く説くも亦た是なり。孟子も亦た曰く、『形色は、天性なり』と。這れも也(また)是れ気を指して説くなり」と。又た曰く、「凡そ人、口に信(まか)せて説き、意に任せて行い、皆な此れは是れ我が心性に依りて出で来たると説く。此れは是れ所謂る生を之れ性と謂うなり。然れども却って過差有るを要す。若し頭脳を暁り得て、吾が良知の上に依りて説き出だし来たり、行い将ち去らば、便ち自ら是れ停当ならん。然れども良知も亦た只だ是れ這の口に説き、這の身に行う。豈に能く気を外にして、別に個の去きて行い去きて説く有らんや。故に曰く、『性を論じて気を論ぜざれば、備わらず。気を論じて性を論ぜざれば、明らかならず』と。気も亦た性なり。性も亦た気なり。但だ須らく頭脳の是当なるを認め得べし」と。
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