伝習録 / 黄以方録
以方問曰:「先生之說『格物』:凡《中庸》之『慎獨』及『集義』、『博約』等說,皆為『格物』之事。」先生曰:「非也。格物即慎擉、即戒懼。至於『集義』、『博約』,工夫只一般。不是以那數件都做『格物』底事。」
新字:以方問曰:「先生之説『格物』:凡《中庸》之『慎独』及『集義』、『博約』等説,皆為『格物』之事。」先生曰:「非也。格物即慎擉、即戒懼。至於『集義』、『博約』,工夫只一般。不是以那数件都做『格物』底事。」
書き下し
以方問いて曰く、「先生の『格物』を説くに、凡そ『中庸』の『独りを慎む』及び『義を集む』『博約』等の説は、皆な『格物』の事と為す」と。先生曰く、「非なり。格物は即ち独りを慎む、即ち戒懼なり。『義を集む』『博約』に至りては、工夫、只だ一般なり。是れ那の数件を以て都て『格物』底の事と做すにあらず」と。
現代語訳
黄以方が問うた。「先生が『格物』を説かれる時、『中庸』の『独りを慎む』や『義を集める』『博約』などの説は、みな『格物』の事だとされます」。先生は「そうではない。格物とは、独りを慎むこと、戒め恐れることだ。『義を集める』『博約』に至っては、工夫としては同じだ。それらをすべて『格物』の事とするのではない」と言われた。
解説
私たちは、物事を理解しようとするとき、似たような概念をひとまとめにしてしまいがちです。しかし、それぞれの概念には固有の意味や役割があります。例えば、自分を律する「慎独」や、過ちを恐れる「戒懼」は、自分自身の内面と向き合う「格物」の具体的な実践です。一方で、「義を集める」や「広く学ぶ」といった行為は、その実践を支え、深めるための別の工夫と言えます。それぞれの意味を正確に捉え、混同せずに理解することが、本質を見抜く上で重要です。
この章句が説くこと
格物即慎独即戒懼不是以那数件都做格物底事慎独
関連する章句
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伝習録・陸澄録「格物」を問う。先生曰く、「格とは、正なり。其の不正を正して、以て正に帰するなり」と。
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伝習録・答周道通書来書に云う、「致知の説は、春間、再び誨益を承け、已に頗る力を用うるを知る。旧に比して尤も簡易と為すを覚え得たり。但だ鄙心は則ち謂う、初学と之を言わば、還お須らく『格物』の意思を帯び、之をして手を下す処を知らしむべし。本来『致知』『格物』は一併に下る。但だ初学に在りては未だ手を下し功を用うるを知らず、還お与に『格物』を説きて、方に『致知』を暁り得ん」と云云。「格物」は是れ「致知」の功夫なり。「致知」を知り得れば便ち已に「格物」を知り得たり。若し是れ未だ「格物」を知らずんば、則ち是れ「致知」の工夫も亦た未だ嘗て知らざるなり。近ごろ一書の友人と此を論ずるもの頗る悉(つく)せる有り。今、一通を往かす。細かに之を観ば、当に自ら見るべし。
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伝習録・徐愛録先生又た曰く、「『格物』は『孟子』の『大人は君心を格す』の格の如し。是れ其の心の不正を去りて、以て其の本体の正を全うするなり。但だ意念の在る所、即ち其の不正を去りて、以て其の正を全うするを要す。即ち時と無く処と無く天理を存するに非ざる無し。即ち是れ窮理なり。『天理』は即ち是れ『明徳』なり。『窮理』は即ち是れ『明徳を明らかにす』なり」と。
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伝習録・黄以方録黄以方問う、「『博く文を学ぶ』は事に随いて此の天理を存するを学ぶと為す。然らば則ち『行いて余力有らば、則ち以て文を学ぶ』と謂うは、其の説、相い合わざるに似たり」と。先生曰く、「『詩』『書』・六芸は、皆な是れ天理の発見なり。文字は都て其の中に包まる。之を『詩』『書』・六芸に考うるは、皆な此の天理を存するを学ぶ所以なり。特に事為に発見する者のみ方に文と為すにあらず。『余力あらば文を学ぶ』も亦た只だ『博く文を学ぶ』中の事なり」と。或るひと「学びて思わず」の二句を問う。曰く、「此れも亦た為にする有りて言う。其の実、思うは即ち学なり。学びて疑う所有らば、便ち須らく之を思うべし。『思いて学ばず』とは、蓋し此等の人有り。只だ懸空に去きて思い、一の想個の道理を想い出ださんことを要す。却って身心の上に在りて実に其の力を用い、以て此の天理を存するを学ばず。思と学とを両事と作して做す。故に『罔(くら)し』と『殆(あや)うし』の病有り。其の実、思うは只だ是れ其の学ぶ所を思う。原と両事に非ざるなり」と。先生曰く、「先儒、『格物』を解して天下の物を格すと為す。天下の物、如何ぞ格し得んや。且つ一草一木も亦た皆な理有りと謂う。今、如何ぞ去きて格さんや。縦い草・木を格し得来たるも、如何ぞ反り来たりて自家の意を誠にし得んや。我、『格』を解して『正』の字の義と作し、『物』を『事』の字の義と作す。『大学』の所謂る『身』は、即ち耳・目・口・鼻・四肢、是なり。身を修めんと欲するは便ち是れ、目は礼に非ずんば視る勿かれ、耳は礼に非ずんば聴く勿かれ、口は礼に非ずんば言う勿かれ、四肢は礼に非ずんば動く勿かれ、と要するなり。這個の身を修めんことを要するに、身上に如何ぞ工夫を用い得んや。心なる者は、身の主宰なり。目は視ると雖も、而して視る所以の者は、心なり。耳は聴くと雖も、而して聴く所以の者は、心なり。口と四肢とは言い動くと雖も、而して言い動く所以の者は、心なり。故に身を修めんと欲するは自家の心体を体当し、常に廓然大公にして、些子も正しからざる処有る無からしむるに在り。主宰、一たび正しければ、則ち目に竅を発するも、自ら礼に非ざるの視る無く、耳に竅を発するも、自ら礼に非ざるの聴く無く、口と四肢とに竅を発するも、自ら礼に非ざるの言い動く無し。此れ便ち是れ身を修むるは其の心を正すに在るなり。然れども至善なる者は、心の本体なり。心の本体、那ぞ不善有らんや。如今、心を正さんと要するに、本体の上、何処にか功を用い得んや。必ず心の発動する処に就きて、纔(はじ)めて力を著くべきなり。心の発動は不善無き能わず。故に須らく此の処に就きて力を著くべし。便ち是れ『誠意』に在るなり。一念、善を好むに発せば、便ち実実落落として去きて善を好むが如し。一念、悪を悪むに発せば、便ち実実落落として去きて悪を悪む。意の発する所、既に誠ならざる無くんば、則ち其の本体、如何ぞ正しからざる的有らんや。故に其の心を正さんと欲するは意を誠にするに在り。工夫、誠意に到りて、始めて著落の処有り。然れども誠意の本は、又た知を致すに在るなり。所謂る『人、知らずと雖も、己の独り知る者』、此れ正に是れ吾が心の良知の処なり。然れども善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち做し去らず、不善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち去きて做さずんば、則ち這個の良知は便ち遮蔽し了る。是れ知を致す能わざるなり。吾が心の良知、既に擴充して底に到る能わずんば、則ち善は好むを知ると雖も、著実に好む能わず。悪は悪むを知ると雖も、著実に悪む能わず。如何ぞ意の誠なるを得んや。故に知を致すは、意の誠なるの本なり。然れども亦た是れ懸空の致知にあらず。知を致すは実事の上に在りて格す。意、善を為すに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為し、意、悪を去るに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為さざるが如し。悪を去るは固より是れ不正を格して以て正に帰す。善を為すは則ち不善、正されたり。亦た是れ不正を格して以て正に帰すなり。此くの如くんば、則ち吾が心の良知、私欲の蔽う無くして、以て其の極を致すを得たり。而して意の発する所、善を好み悪を去ること、誠ならざる有る無し。誠意の工夫の実に手を下す処は格物に在るなり。若し此くの如く物を格さば、人人、便ち做し得たり。人皆な以て堯・舜と為るべしとは、正に此に在るなり」と。
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