伝習録 / 黄省曾録
先生曰:「用功到精處,愈著不得言語,說理愈難。若著意在精微上,全體功夫反蔽泥了。」
新字:先生曰:「用功到精処,愈著不得言語,説理愈難。若著意在精微上,全体功夫反蔽泥了。」
書き下し
先生曰く、「功を用いて精しき処に到らば、愈々言語を著け得ず、理を説くこと愈々難し。若し意を精微の上に著けなば、全体の功夫は反りて蔽泥せん」と。
現代語訳
先生は言われた。「努力が精しい所に至るほど、言葉にできなくなり、理を説くのが難しくなる。もし精微さに意を着ければ、全体の工夫がかえって塞がる」。
解説
物事を深く探求し、その本質に迫るほど、それを言葉で表現するのが難しくなります。無理に精緻な言葉を探そうとすると、かえって全体の理解を妨げ、本質から遠ざかってしまうことがあります。言葉にできない感覚や直感を、そのまま受け入れることも大切です。完璧な言葉を求めるよりも、その深まりゆく感覚を信頼し、言葉にならない部分を大切にすることで、かえって物事の本質を捉え、日々の学びや実践がより豊かなものになるでしょう。
この章句が説くこと
若著意在精微上全体功夫反蔽泥了
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伝習録・黄以方録問う、「近来、妄念も也(また)少なきを覚ゆ。亦た曾て想を著けて定めて如何にして功を用いんと要せざるを覚ゆ。知らず、此れは是れ工夫なりや否や」と。先生曰く、「汝、且く去きて著実に功を用いよ。便ち這些の著想を多くするも也(また)妨げず。久久にして自ら妥帖するを会(よ)くせん。若し纔かに些の功を下し得て、便ち効験を説かば、何ぞ恃むに足らんや」と。
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