伝習録 / 黄省曾録
問:「良知一而已,文王作《彖》,周公繫《爻》,孔子贊《易》,何以各自看理不同?」先生曰:「聖人何能拘得死格?大要出於良知同,便各為說何害?且如一園竹,只要同此枝節,便是大同;若拘定枝枝節節都要高下大小一樣,便非造化妙手矣。汝輩只要去培養良知;良知同,更不妨有異處。汝輩若不肯用功,連笋也不曾抽得,何處去論枝節?」
新字:問:「良知一而已,文王作《彖》,周公繋《爻》,孔子賛《易》,何以各自看理不同?」先生曰:「聖人何能拘得死格?大要出於良知同,便各為説何害?且如一園竹,只要同此枝節,便是大同;若拘定枝枝節節都要高下大小一様,便非造化妙手矣。汝輩只要去培養良知;良知同,更不妨有異処。汝輩若不肯用功,連笋也不曽抽得,何処去論枝節?」
書き下し
問う、「良知は一なるのみ。文王は『彖』を作り、周公は『爻』を繋け、孔子は『易』を賛す。何を以て各々自ら理を看ること同じからざるか」と。先生曰く、「聖人、何ぞ能く死格に拘り得んや。大要、良知に出づること同じくば、便ち各々説を為すも何ぞ害あらん。且つ一園の竹の如きは、只だ此の枝節を同じくするを要さば、便ち是れ大同なり。若し拘り定めて枝枝節節、都て高下大小を一様ならんことを要さば、便ち造化の妙手に非ざるなり。汝輩は只だ去きて良知を培養せんことを要す。良知、同じくば、更に異なる処有るも妨げず。汝輩、若し肯えて功を用いずんば、笋すら連ねて也(また)曾て抽(ぬ)き得ず。何処にか去きて枝節を論ぜんや」と。
現代語訳
問うた。「良知は一つだけです。文王は『彖』を作り、周公は『爻』を繋け、孔子は『易』を讃えました。なぜそれぞれ理の見方が違うのですか」。先生は言われた。「聖人がどうして固定した型に縛られよう。大筋が良知から出ていれば、それぞれ説を立てて何の害があろう。一つの園の竹も、枝節が同じであれば大同だ。もし枝の一つひとつまで高低大小を同じにせよと言えば、造化の妙手ではない。君たちはただ良知を養え。良知が同じなら、異なる所があっても構わない。もし努力しないなら、竹の子すら生えていない。どこで枝節を論じるのか」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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伝習録・答聶文蔚 二聖賢の学を論ずるは、多くは是れ時に随い事に就く。言は人ごとに殊なるが若しと雖も、而も其の工夫の頭脳を要するに、符節を合するが若し。天地の間に縁りて、原と只だ此の性有り、只だ此の理有り、只だ此の良知有り、只だ此の一件の事有るのみ。故に凡そ古人の学を論ずる処に就きて工夫を説かば、更に攙和兼搭して説くを必とせず。自然に脗合貫通せざる無き者なり。才かに攙和兼搭して説くを須いば、即ち是れ自己の工夫の未だ明徹ならざるなり。近時、「義を集む」の功は、必ず須らく個の「良知を致す」を兼搭して而る後に備わると謂う者有り。則ち是れ「義を集む」の功、尚お未だ了徹せざるなり。「義を集む」の功、尚お未だ了徹せずんば、適に以て「良知を致す」の累と為るに足るのみ。「良知を致す」の功は必ず須らく一個の「忘るる勿かれ、助くる勿かれ」を兼搭して而る後に明らかなりと謂わば、則ち是れ「良知を致す」の功、尚お未だ了徹せざるなり。「良知を致す」の功、尚お未だ了徹せずんば、適に以て「忘るる勿かれ、助くる勿かれ」の累と為るに足るのみ。此くの若き者は、皆な是れ文義の上に就きて解釈牽附し、以て混融湊泊を求めて、曾て自己の実工夫の上に就きて体験せず。是を以て之を論ずること愈々精にして、之を去ること愈々遠し。文蔚の論は、其の大本達道に於て既に已に沛然として疑い無し。「致知」「窮理」及び「忘・助」等の説に至りては、時に亦た攙和兼搭の処有り。却って是れ区区の所謂る康荘の大道の中に、或いは時に横斜迂曲なる者なり。工夫の熟するを得るの後に到らば、自ら将に釈然たらんとす。文蔚の「致知」の説を、之を親に事え兄に従うの間に求めて、便ち持循する所有るを覚ゆと謂うは、此の段、最も近来の真切篤実の功を見る。但だ此を以て自ら為すは妨げ無く、自ら力を得る処有り。此を以て遂に定説と為して人に教うれば、却って又た薬に因りて病を発するの患い有るを免れず。亦た一たび講ぜざるべからざるなり。
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伝習録・黄以方録又た曰く、「此の道は至簡至易的なり。亦た至精至微的なり。孔子曰く、『其れ諸を掌に示すが如きか』と。且つ人の掌に於けるや、何の日か見ざらん。他の掌中に多少の文理あるかを問うに至るに及びては、却って便ち知らず。即ち我が『良知』の二字の如きは、一たび講ずれば便ち明らかなり。誰か知り得ざらん。若し的(まさ)に良知を見んと欲さば、却って誰か能く見得んや」と。問いて曰く、「此の知は恐らくは是れ方体無き的にして、最も捉摸し難し」と。先生曰く、「良知は即ち是れ『易』なり。『其の道為るや屢々遷り、変動して居らず、六虚に周流し、上下、常無く、剛柔、相い易わり、典要と為すべからず、惟だ変の適く所のままなり』。此の知、如何ぞ捉摸し得んや。見得て透る時は便ち是れ聖人なり」と。
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伝習録・黄省曾録問う、「聖人の生知・安行は、是れ自然の的なり。如何ぞ甚(なん)の功夫か有らん」と。先生曰く、「知・行の二字は、即ち是れ功夫なり。但だ浅深難易の殊有るのみ。良知は原と是れ精精明明的なり。親に孝せんと欲するが如きは、生知・安行的は只だ是れ此の良知に依りて実落に孝を尽くすのみ。学知・利行の者は只だ是れ時時に省覚し、務めて此の良知に依りて孝を尽くさんことを要するのみ。困知・勉行の者に至りては、蔽錮すること已に深し。此の良知に依りて去きて孝せんことを要すと雖も、又た私欲の阻む所と為る。是を以て能わず。必ず須らく人一たびせば己は百たびし、人十たびせば己は千たびするの功を加えて、方に能く此の真知に依りて以て其の孝を尽くすべし。聖人は是れ生知・安行なりと雖も、然れども其の心は敢えて自ら是とせず。肯えて困知・勉行の功夫を做す。困知・勉行的は却って生知・安行の事を做さんことを思量せんと要す。怎生(いかん)ぞ成し得んや」と。
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伝習録・黄修易録先生、一日、出でて禹穴に遊ぶ。田間の禾を顧みて曰く、「能く幾何の時ぞ。又た此くの如く長ぜり」と。范兆期、傍らに在りて曰く、「此れ只だ是れ根有り。学問、能く自ら根を植えば、亦た長ずる無きを患えず」と。先生曰く、「人、孰か根無からん。良知は即ち是れ天の植えたる霊根なり。自ら生生して息まず。但だ私累を著け、此の根を戕賊蔽塞せば、発生するを得ざるのみ」と。
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伝習録・陳九川録先生曰く、「聖人も亦た是れ『学知』なり。衆人も亦た是れ『生知』なり」と。問いて曰く、「何如」と。曰く、「這の良知は人人皆な有す。聖人は只だ是れ保全して些(すこ)しの障蔽も無く、兢兢業業、亹亹翼翼として、自然に息まず。便ち也(また)是れ学なり。只だ是れ生の分数、多し。所以に之を『生知・安行』と謂う。衆人は孩提の童より、此の知を完具せざる莫し。只だ是れ障蔽、多し。然れども本体の知は自ら泯息し難し。問学克治すと雖も、也(また)只だ他に憑る。只だ是れ学の分数、多し。所以に之を『学知・利行』と謂う」と。
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伝習録・答欧陽崇一崇一の来書に云う、「師云う、『徳性の良知は、聞見に由るに非ず。若し多く聞きて其の善なる者を択びて之に従い、多く見て之を識すと曰わば、則ち是れ専ら之を見聞の末に求めて、已に第二義に落在す』と。竊かに意う、良知は見聞に由りて有るに非ずと雖も、然れども学者の知は、未だ嘗て見聞に由りて発せずんばあらず。見聞に滞るは固より非なり。而して見聞も亦た良知の用なり。今、『第二義に落在す』と曰うは、恐らくは専ら見聞を以て学と為す者の為に言うならん。若し其の良知を致して之を見聞に求めば、亦た知・行合一の功なるに似たり。如何」と。良知は見聞に由りて有るに非ず。而して見聞は良知の用に非ざる莫し。故に良知は見聞に滞らずして、亦た見聞を離れざるなり。孔子云う、「吾に知有らんや。知無きなり」と。良知の外、別に知無し。故に「良知を致す」は是れ学問の大頭脳、是れ聖人の人に教うる第一義なり。今、専ら之を見聞の末に求むと云わば、則ち是れ頭脳を失却して、已に第二義に落在す。近時、同志の中、蓋し已に「致良知」の説有るを知らざる莫し。然れども其の工夫、尚お鶻突なる者多きは、正に是れ此の一問を欠くなり。大抵、学問の工夫は只だ主意の頭脳の是当なるを要す。若し主意の頭脳、専ら「良知を致す」を以て事と為さば、則ち凡そ多く聞き、多く見るも、「良知を致す」の功に非ざる莫し。蓋し日用の間、見聞醻酢は、千頭万緒と雖も、良知の発用流行に非ざる莫し。見聞醻酢を除却せば、亦た良知の致すべき無し。故に只だ是れ一事なり。若し其の良知を致して之を見聞に求むと曰わば、則ち語意の間、未だ二と為るを免れず。此れ専ら之を見聞の末に求むる者と稍(やや)同じからずと雖も、其の未だ精一の旨を得ずと為すは、則ち一なるのみ。「多く聞きて其の善なる者を択びて之に従い、多く見て之を識す」。既に択ぶと云い、又た識すと云えば、其の良知も亦た未だ嘗て其の間に行われずんばあらず。但だ其の意を用うるは乃ち専ら多く聞き、多く見る上に去きて択び識するに在らば、則ち已に頭脳を失却せり。
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