伝習録 / 黄省曾録
「聖人之知,如青天之日;賢人如浮雲天日;愚人如陰霾天日。雖有昏明不同,其能辨黑白則一。雖昏黑夜裏,亦影影見得黑白,就是日之餘光未盡處。困學功夫,亦只從這點明處精察去耳。」
新字:「聖人之知,如青天之日;賢人如浮雲天日;愚人如陰霾天日。雖有昏明不同,其能弁黒白則一。雖昏黒夜裏,亦影影見得黒白,就是日之余光未尽処。困学功夫,亦只従這点明処精察去耳。」
書き下し
「聖人の知は、青天の日の如し。賢人は浮雲の天の日の如し。愚人は陰霾の天の日の如し。昏明の同じからざる有りと雖も、其の能く黒白を辨ずるは則ち一なり。昏黒の夜裏と雖も、亦た影影として黒白を見得たり。就ち是れ日の余光の未だ尽きざる処なり。困学の功夫も、亦た只だ這点の明処より精察し去るのみ」と。
現代語訳
「聖人の知は、晴れた空の日のようだ。賢人は薄雲のかかった空の日、愚人は霞んだ空の日のようだ。明暗の違いはあっても、黒白を弁じられる点では同じだ。真っ暗な夜でも、ぼんやりと黒白は見える。それが日の残光の尽きていない所だ。困しんで学ぶ工夫も、この一点の明るさから精しく察していくだけだ」。
解説
私たちは、自分の能力や状況を「聖人」「賢人」「愚人」のように、はっきりと区別してしまいがちです。しかし、どんなに困難な状況や暗闇の中にいても、物事の善悪や本質をぼんやりとでも見分ける力は、誰の心にも必ず残っています。たとえそれが「日の残光」のように微かな光であっても、その一点の明るさから目を凝らし、深く洞察していくこと。諦めずにその光を頼りに探求を続ければ、必ず道は開け、より明確な真実へとたどり着けるでしょう。
この章句が説くこと
雖昏黒夜裏亦影影見得黒白就是日之余光未尽処
関連する章句
-
伝習録・黄省曾録先生曰く、「『惟だ天下の聖のみ、能く聡明睿知たりと為す』。旧に看るに何等か玄妙なる。今、看来たるに、原と是れ人人自ら有する的なり。耳は原と是れ聡、目は原と是れ明、心思は原と是れ睿知なり。聖人は只だ是れ之を一に能くするのみ。能くする処は正に是れ良知なり。衆人の能わざるは、只だ是れ個の知を致さざるなり。何等か明白簡易なる」と。
-
伝習録・陳九川録先生曰く、「聖人も亦た是れ『学知』なり。衆人も亦た是れ『生知』なり」と。問いて曰く、「何如」と。曰く、「這の良知は人人皆な有す。聖人は只だ是れ保全して些(すこ)しの障蔽も無く、兢兢業業、亹亹翼翼として、自然に息まず。便ち也(また)是れ学なり。只だ是れ生の分数、多し。所以に之を『生知・安行』と謂う。衆人は孩提の童より、此の知を完具せざる莫し。只だ是れ障蔽、多し。然れども本体の知は自ら泯息し難し。問学克治すと雖も、也(また)只だ他に憑る。只だ是れ学の分数、多し。所以に之を『学知・利行』と謂う」と。
-
伝習録・黄省曾録先生曰く、「知る無く知らざる無しとは、本体は原と是くの如し。譬えば日は未だ嘗て心に物を照らす有らずして、自ら物として照らさざる無し。照らす無く照らさざる無きは、原と是れ日の本体なり。良知は本と知る無し。今、却って知る有らんことを要す。本と知らざる無し。今、却って知らざる有るかと疑う。只だ是れ信ずること及ばざるのみ」と。
-
伝習録・黄省曾録問う、「聖人の生知・安行は、是れ自然の的なり。如何ぞ甚(なん)の功夫か有らん」と。先生曰く、「知・行の二字は、即ち是れ功夫なり。但だ浅深難易の殊有るのみ。良知は原と是れ精精明明的なり。親に孝せんと欲するが如きは、生知・安行的は只だ是れ此の良知に依りて実落に孝を尽くすのみ。学知・利行の者は只だ是れ時時に省覚し、務めて此の良知に依りて孝を尽くさんことを要するのみ。困知・勉行の者に至りては、蔽錮すること已に深し。此の良知に依りて去きて孝せんことを要すと雖も、又た私欲の阻む所と為る。是を以て能わず。必ず須らく人一たびせば己は百たびし、人十たびせば己は千たびするの功を加えて、方に能く此の真知に依りて以て其の孝を尽くすべし。聖人は是れ生知・安行なりと雖も、然れども其の心は敢えて自ら是とせず。肯えて困知・勉行の功夫を做す。困知・勉行的は却って生知・安行の事を做さんことを思量せんと要す。怎生(いかん)ぞ成し得んや」と。
-
伝習録・陸澄録「善念発して之を知り、而して之を充つ。悪念発して之を知り、而して之を遏(とど)む。知ると充つると遏むるとは、志なり、天の聡明なり。聖人は只だ此れ有り。学者は当に此を存すべし」。
-
伝習録・答周道通書来書に云う、「凡そ学者、纔(わず)かに工夫を做すを暁り得れば、便ち聖人の気象を識り得んことを要す。蓋し聖人の気象を認め得て、把(と)りて準的と做し、乃ち実地に就きて工夫を做し去らば、才めて差う会(べ)からず、才めて是れ聖を作すの工夫ならん。未だ知らず、是なりや否や」と。先に聖人の気象を認むるは、昔人、嘗て是の言有り。然れども亦た頭脳有るを欠く。聖人の気象は自ら是れ聖人の的なり。我は何の処より識認せん。若し自己の良知の上に就きて真切に体認せずんば、星無きの称(はかり)を以て軽重を権(はか)り、未だ開かざるの鏡もて妍醜を照らすが如し。真に所謂る小人の腹を以て、君子の心を度るなり。聖人の気象は何に由りて認め得ん。自己の良知は原と聖人と一般なり。若し自己の良知を体認し得て明白ならば、則ち聖人の気象は聖人に在らずして我に在り。程子嘗て云う、「堯を覷(うかが)い著(つ)け、他の行事を学ぶも、他の許多の聡明睿智無くんば、安くんぞ能く彼の動容周旋の礼に中るが如くならんや」と。又た云う、「心、道に通じ、然る後に能く是非を辨ず」と。今、且く説け、道に通ずるは何処に在りや。聡明睿智は何処より出で来たるや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る