伝習録 / 黄省曾録
或問:「釋氏亦務養心,然要之不可以治天下,何也?」先生曰:「吾儒養心未嘗離卻事物,只順其天則自然,就是功夫。釋氏卻要盡絕事物,把心看做幻相,漸入虛寂去了,與世間若無些子交涉,所以不可冶天下。」
新字:或問:「釈氏亦務養心,然要之不可以治天下,何也?」先生曰:「吾儒養心未嘗離却事物,只順其天則自然,就是功夫。釈氏却要尽絶事物,把心看做幻相,漸入虚寂去了,与世間若無些子交渉,所以不可冶天下。」
書き下し
或るひと問う、「釈氏も亦た心を養うを務む。然れども之を要するに以て天下を治むべからず。何ぞや」と。先生曰く、「吾が儒の心を養うは、未だ嘗て事物を離却せず。只だ其の天則の自然に順う。就ち是れ功夫なり。釈氏は却って事物を尽く絶たんことを要す。心を把(と)りて幻相と看做し、漸く虚寂に入り去れり。世間と些子の交渉も無きが若し。所以に天下を治むべからず」と。
現代語訳
ある人が問うた。「仏教もまた心を養うことを務めますが、天下を治めることができないのはなぜですか」。先生は「我々儒の心を養うことは、事物を離れない。ただ天の則の自然に従う。それが工夫だ。仏教は事物をすべて絶とうとする。心を幻と見なし、次第に虚しい静寂に入っていく。世間と何の交渉もないようだ。だから天下を治められない」と言われた。
解説
仏教も心を養いますが、世間から離れるため天下を治められない、と王陽明は言います。儒教の「心を養う」とは、日々の仕事や人間関係といった「事物」から離れず、その中で天の道理に従うこと。つまり、現実世界と深く関わりながら心を磨くことが、真の修養である、という考え方です。世間との交渉を絶った修養は、現実世界で役立つ力を持たない。どこで心を養うかが、そのまま、その修養が何に貢献できるかを決めるのです。
この章句が説くこと
吾儒養心未嘗離却事物只順其天則自然就是功夫
関連する章句
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伝習録・黄省曾録一友問う、「功夫、此の知をして時時に接続せしめんと欲するに、一切の応感の処、反りて照管の及ばざるを覚ゆ。若し事上に去きて周旋せば、又た見えざるを覚ゆ。如何にせば則ち可ならん」と。先生曰く、「此れ只だ良知を認むること未だ真ならず。尚お内外の間有り。我の這裏の功夫は、人の急心に由らず。良知の頭脳、是当なるを認め得て、去きて樸実に功を用いなば、自ら透徹するを会(よ)くせん。此に到らば便ち是れ内外、両つながら忘る。又た何ぞ心と事と合一せざらんや」と。
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伝習録・陳九川録又た問う、「静坐して功を用うるに、頗る此の心の収斂するを覚ゆ。事に遇わば又た断え了る。旋(すなわ)ち個の念頭を起こし、事上に去きて省察す。事、過ぎて又た旧功を尋ぬ。還お内外有りて、打ちて一片と作さざるを覚ゆ」と。先生曰く、「此れ『格物』の説、未だ透らざるなり。心、何ぞ嘗て内外有らんや。即ち惟濬の今、此に在りて講論するが如きも、又た豈に一心の内に在りて照管する有らんや。這(こ)の講説を聴く時の専敬は、即ち是れ那(か)の静坐する時の心なり。功夫は一貫す。何ぞ須らく更に念頭を起こすべけんや。人は須らく事上に在りて磨錬し、功夫を做して乃ち益有るべし。若し只だ静を好み、事に遇わば便ち乱れば、終に長進無し。那の静なる時の功夫も亦た差う。収斂に似て、実は放溺なり」と。後、洪都に在りて、復た于中・国裳と内外の説を論ず。渠(かれ)ら皆な云う、物は自ら内外有り。但だ内外並びに功夫を著くるを要す。間有るべからざるのみ、と。以て先生に質す。曰く、「功夫は本体を離れず。本体は原と内外無し。只だ後来、功夫を做す者の内外を分かちて、其の本体を失うが為なり。如今、正に功夫の内外有るを要せざるを講明せんとす。乃ち是れ本体の功夫なり」と。是の日、倶に省有り。
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伝習録・黄省曾録先生曰く、「僊家は虚に説き到る。聖人、豈に能く虚の上に一毫の実を加え得んや。仏氏は無に説き到る。聖人、豈に能く無の上に一毫の有を加え得んや。但だ僊家の虚を説くは養生の上より来たり、仏氏の無を説くは生死の苦海を出離する上より来たる。却って本体の上に這些子の意思を加え在らば、便ち是れ他の虚無の本色ならず。便ち本体に於て障礙有り。聖人は只だ是れ他の良知の本色に還して、更に些子の意も著けず。良知の虚は便ち是れ天の太虚なり。良知の無は便ち是れ太虚の無形なり。日・月・風・雷・山・川・民・物、凡そ貌象形色有るものは、皆な太虚無形の中に在りて発用流行す。未だ嘗て天の障礙と作り得ず。聖人は只だ是れ其の良知の発用に順う。天地万物は倶に我が良知の発用流行の中に在り。何ぞ嘗て又た一物の良知の外に起こりて能く障礙と作り得る有らんや」と。
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伝習録・陳九川録問う、「儒者、三更の時分に到り、胸中の思慮を掃蕩し、空空静静たるは、釈氏の静と只だ一般なり。両下、皆な用いず。此の時、何の分別する所ぞ」と。先生曰く、「動・静は只だ是れ一個なり。那の三更の時分の空空静静なるは、只だ是れ天理を存す。即ち是れ如今、事に応じ物に接するの心なり。如今、事に応じ物に接するの心も、亦た是れ此の天理に循う。便ち是れ那の三更の時分の空空静静の心なり。故に動・静は只だ是れ一個なり。分別し得ず。動・静の合一するを知り得ば、釈氏の毫釐の差う処も亦た自ら揜(おお)う莫からん」と。
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伝習録・答周道通書来書に云う、「事上に磨錬す。一日の内、事有ると事無きとを管せず、只だ一意に本原を培養す。若し事の来たりて感ずるに遇い、或いは自己に感有らば、心上に既に覚有り。安くんぞ事無しと謂うべけんや。但だ事に因りて心を凝らすこと一会(ひとしき)り、大段、事理の当に此くの如くなるべきを覚え得ば、只だ事無きが如く之に処し、吾が心を尽くすのみ。然れども乃ち処し得て善きと未だ善からざると有るは、何ぞや。又た或いは事の来たること多きを得ば、須らく次第に与に処すべし。毎に才力の足らざるに因り、輒ち困しむ所と為り、極力扶け起こすと雖も精神は已に衰弱するを覚ゆ。此に遇わば未だ十分に退省するを要するを免れず。寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからず。如何」と。説く所の工夫は、道通の分上に就きても也(また)只だ是れ此くの如く用う。然れども未だ出入有るを免れざるに在り。凡そ人の学を為すは、終身、只だ這の一事を為す。少より老に至り、朝より暮に至るまで、事有ると事無きとを論ぜず、只だ是れ這の一件を做し得たり。所謂る「必ず事とすること有り」なる者なり。若し「寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからず」と説かば、却って是れ尚お両事と為すなり。「必ず事とすること有りて忘るる勿かれ、助くる勿かれ」。事物の来たるに、但だ吾が心の良知を尽くして以て之に応ず。所謂る「忠恕は道を違(さ)ること遠からず」なり。凡そ処し得て善き有り、未だ善からざる有ると、及び困頓失次の患い有る者は、皆な是れ毀誉得喪に牽かれて、実に其の良知を致す能わざるのみ。若し能く実に其の良知を致さば、然る後に平日の所謂る善なる者も未だ必ずしも是れ善ならず、所謂る未だ善からざる者も却って恐らくは正に是れ毀誉得喪に牽かれて、自ら其の真知を賊(そこな)う者なるを見得ん。
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伝習録・陸澄録問う、「寧静にして心を存する時は、『未発の中』と為すべきや否や」と。先生曰く、「今人の心を存するは、只だ気を定め得るのみ。其の寧静なる時に当たりても、亦た只だ是れ気の寧静なるのみ。以て『未発の中』と為すべからず」と。曰く、「『未』は便ち是れ『中』なり。亦た是れ『中』を求むるの工夫ならざるか」と。曰く、「只だ人欲を去り天理を存せんことを要すれば、方に是れ工夫なり。静なる時に念念に人欲を去り天理を存し、動なる時に念念に人欲を去り天理を存す。寧静なると寧静ならざるとを管せず。若し那の寧静に靠(よ)らば、惟だ漸く静を喜び動を厭うの弊有るのみならず、中間の許多の病痛、只だ是れ潜伏し在り、終に絶ち去る能わず。事に遇わば旧に依りて滋長せん。理に循うを以て主と為さば、何ぞ嘗て寧静ならざらん。寧静を以て主と為さば、未だ必ずしも理に循う能わず」と。
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